2019年4月、葬儀で長野へ
小林秀治
4月後半からの10連休前半に妻の実家(とはいうものの、妻の姉夫婦の家。妻の両親は既に亡くなっていて、妻が生まれた家はまだ残っていて、低家賃の貸家になっている。)に行くことになった。目的は、妻の一番上の兄が亡くなったので、その葬儀に参加することであった。 葬儀は、連休初日にあたるので、前日の夜遅くに、八王子から車で出発した。その夜、私は、労働組合の会議があったので、家に帰るのが、遅くなった。家に着いたのは、午前0時少し前だった。妻は、寝ていたが、連休の初日の中央高速道は、混むと予想されたので、妻を起こして出発することにした。 途中、雨が降ってきた。中央高速道は、連休前の夜とあって、乗用車が普段より多い。 中央高速道の須玉インターを降りて141号線を北上し、佐久穂町に入る。合併前は、八千穂町と言っていたところで、妻の生まれ育ったところである。八千穂からは、彼方に八ヶ岳連峰を望める。実家の眼下には、小海線が走っている。そして、千曲川が流れている。 着いたのは、3時半頃で、それから、仮眠を取る。起きたのは、7時過ぎであった。
納棺の風習・腰に藁を巻く
寝ていた隣の部屋には、妻の兄の遺体が棺桶に入っていた。祭壇もあった。葬儀は、昼少し前から、親族のみで行うことになっていた。 昼近くなって、葬儀屋さんがきた。坊さんは頼んでいない。これから、あの世への旅支度をさせて、火葬場に向かうのである。
棺桶のふたを閉めるにあたって、この地方の儀式のようなものを行う。葬儀の参加者は、妻の姉夫婦、その長男夫婦とその子ども二人、次男夫婦とその子ども4人、独身の三男、妻と私の15人である。 まず、一人ひとりが、腰に縄を縦結びに巻く。小さく切った和紙を持ち、遺体に、脚絆などを着せて旅支度をさせる。腰に縄を巻いて、旅支度させるのは、今まで初めて見たので、ちょっと異様に見えた。 今回は、既に、棺に遺体が納められているので、いちいち全部着せることはせずに、遺体の上に置くだけであった。その後、花びらと個人の好物や記念の品などを入れて、棺を閉じる。 縄を巻く風習は、八千穂地方近辺の秩父や山梨でも同じように今でも行われているようである。 棺を親族で持って、家から出し、霊柩車に載せる。
火葬場・佐久平斎場
火葬場・佐久平斎場は、最近できた中部横断自動車道を通るので車で30分ほどのところ、佐久インターの近くにある。 外は良い天気で、遠く八ヶ岳連峰が見えて、まだ雪が残る景色が広がる。風が吹くとまだこの地方は寒い。4月末でも夜は零下になることがあるようだ。 火葬場に着いた。すぐに1番の炉前室に入る。皆で線香をあげると、棺は、すーっと火葬炉に入っていった。 骨になるまで、1時間くらい。2階の待合室で、お茶などを飲みながら待った。 この火葬場は、佐久地域の広域連合の共同施設で新しく建てられたものだ。 職員から声がかけられ、また、1番の炉前室に行く。火葬炉の扉が開き、骨になった妻の兄が出てきた。 皆、一人づつ、骨を拾い、壺に入れる。残りは、職員が、壺にやさしく押し付けて入れていく。粉になったものも入れていく。 そして、壺を受け取り、火葬場を後にする。午後2時ころであった。 皆、お昼がまだであったので、帰る途中、141号線沿いにある「いっちょう」という和風料理屋に寄り、お清めの食事をにぎやかにし、故人の冥福を祈った。 故人は、晴雄さんといった。妻とは10歳以上年の開きがある。妻は、ほとんど、一緒にいた記憶がないそうだ。というのも、晴雄さんは、学生の頃、精神疾患にかかり、長い間、亡くなるまで病院に入っていたのである。私が、妻と結婚して、30年以上になるが、写真では見たことがあったが、会ったことは、一度もない。 今日の葬儀の参加者は、子どもも多いので、そのほとんどが会ったことはない。 思い出のある、妻の姉などは、晴雄さんは、ハンサムだったという。確かに、写真を見ると昭和の俳優の誰かに似てもいる。 人生の3分の2以上を病院で生活した晴雄さんは、どんな思いで過ごしていたのだろうか、想像ができない。
納骨
次の日に、集落のはずれにあるお墓に納骨をした。小林家は、何軒かの共同で立派な墓をもっている。 そこには、妻の両親やその他の小林を名乗る人たちが入っている。実は、私の息子の名前も刻んである。しかし、息子の御骨はまだ自宅にある。妻は、しばらく家においておくと言っていたが、もう4年以上にもなる。
10連休中子どもたちは姉夫婦のもとで
葬儀が終わって、妻の姉夫婦の長男夫婦、次男夫婦、三男が帰っていった。次男夫婦は、二人とも医者だ。長男は、高校教師。三男は、言語聴覚士として病院に勤務している。 次男夫婦の子ども4人は、連休中はずっと残るようだ。私たち夫婦も29日まで残った。
私は、ここに来ると、最近では、ここにある材料を使って料理を作って振舞っている。 子どもたちは、畑に行って、ウドや野菜などを収穫したりしていた。
また、私たちも含めて田んぼの畝に水留のシート貼りと肥料まきを手伝った。長野は、田植えは、5月下旬である。 以前は、田植えや稲刈り、脱穀、稲藁かけなどの手伝いをした。結構、大変なのが、稲藁かけで重労働と言える。田植えや稲刈りは機械で行い、機械でできない端などを人手でやっているので、そう苦にはならない。 畝の水止めのシート張りと肥料まきは、子どもたちも手伝い、結構早くできたようだ。いつもなら、2人でやっているので、とても助かったという。
南相木温泉滝見の湯はお勧め
田植えの前の肥料まきなどを行い、十分に汗をかいたので、今日の夜は、八千穂から車で30分くらいのところ、山の中だが、そこにある「南相木温泉滝見の湯」に行くことになった。滝見の湯は、南相木村の南相木渓谷にあり、山を越えると、川上村や群馬県の上野村となる。 今から34年前に、近くの御巣鷹の尾根には、日本航空機123便が墜落し、520名もが亡くなった大惨事があった。日航の労務管理・経営体質なども影響した大事故である。 温泉は、単純温泉・低張性弱アルカリ性低温泉であり、無色透明である。連休中で少し混んでいた。入っている人は、地元の人が少なく、県外の客のようだった。6時を過ぎると空いてきた。 温泉につかって、汗を流し、露天風呂に入り出る。子どもたちは、先に上がり、場所を取っていた。そして、ピコピコやっていた。 私は、妻に運転をまかすこととして、ビールを飲む。温泉上がりのビールはうまいものだ。ここのおすすめは、十割粗挽き相木そばである。また、シナノユキマスという魚の定食もある。シナノユキマスは、銀色の魚で、サケ科の淡水魚である。原産は、北欧で、1975年に日本に移入された魚である。アジは、淡白で癖がなく美味である。
平成から、令和へ
連休中の子どもたちは、親から離れ、伸び伸びしているようだった。ごたぶんにもれず、ゲームが人気で、一人一台づつ、持っていて、時間があれば、ゲーム機に向かっていた。姉夫婦からは、何時までと時間制限を設けられていた。子どもたちは、ときたま目を盗んでゲームをやっていたが、概ね祖父母の言うことは聞いていた。
私たちが帰ってから、子どもたちは、平成から令和に変わったことにちなんで、碁石で「平」を白、「成」を黒で書き、「令」を黒、「和」を白で碁盤の上に書いた。斜めに読むと白で書いた「平」と「和」が浮き上がり、「平和」と読める。作成したその日は、5月3日の憲法記念日の一日前であった。本人が意識したかどうかは聞いていないが、よくできたとみんなが感心していた。 私たちは、連休でまた、高速道は混むので、夜に出かけて家に帰っていった。渋滞にはほとんど会わなかった。 以上