2016年6月19日 沖縄県民大会

 2016年6月17日から20日まで沖縄に行った。今回は、6月19日の沖縄県民大会への参加が目的である。
 17日、午後3時半に羽田を立ち那覇へ。レンタカーを借りてホテルへ。ホテルに着いたのは、午後7時半頃。ホテルに荷物を置いて、夕食交流会へ。「眞栄田」という割烹料理の店。琉球新報記者の奥さんがやっている店とのこと。区労協事務局長の水久保さんの知人のお店である。
 20年ものの泡盛の古酒やブダイの刺身などおいしい料理・酒をいただいた。結構なお値段ではあったが。
 次の18日は、遺棄現場へ花を手向けに行った。現場にはすでに多くの花が手向けられていた。私たちは、花を買えなかったが、野の花を手向け、手を合わせた。現場は車も通っているが、夜は真っ暗のようだ。そして、道路から少し入ると日本国ではなく、米軍基地であった。

 遺棄現場を後にし、辺野古へ。辺野古は、基地ゲート前ではなく、港にあるテントに向かった。すでに、沖縄は、梅雨が明け、日差しが刺してくる。テントには5,6人がいて、座り込みは4444日目となっていた。大きな赤旗寄せ書きを渡す。受け取った人がJAL争議団の名をみつけ、感激していた。
 今、辺野古は、一時的に工事が止まっている。大浦湾の全貌が見える展望台から辺野古を見る。大浦湾には、黄色いオイルフェンスや工事の台船はすでになかった。地元の漁船だけが数隻出ていた。
 その日は、その後、辺野古から本部の美ら海水族館で魚に癒され、20年ぶりに首里城を見学。首里城は、新たな本殿が築造されていた。
 首里城の見学後、首里城の下に掘られた旧陸軍の司令部壕を見学。その入り口は、既に沖縄の木々にうっそうと覆われ歳月を感じさせるものとなっていた。
 3日目の19日は、いよいよ、県民大会の日である。午後2時開会なので、午前中は、ホテルから普天間基地が望める嘉数高台の展望台に上った。日曜日とあって、米軍の軍用機は稼働していなかったが、基地には、オスプレイが、鎮座していた。そして、基地の周りは、住宅や学校などが迫っていた。
 いったん、ホテルに帰り、県民大会会場の奥武山公園に向かう。モノレールの壷川駅を降りると開会1時間前にも関わらず、会場に続く、橋では人の流れが続いていた。
 会場の陸上競技場に入るとまだ、前の方が空いていたので、そこに入る。ところがよく見ると、炎天下のせいか、木陰や演壇の後ろは満杯になっていた。そして、開会が近づくと、会場は人で埋まった。炎天下のなか、黒い服を着た6万5000人の人が、「怒りは限界を超えた」として「海兵隊の撤去」を求めた。そこに、区労協と区職労の6人が参加した。
 改めて、沖縄の苦悩を感じ、新たな怒りが湧き、日米地位協定の改定と米軍基地撤去の決意を感じた。そして、主催者の女性が語った、「米とともに本土も加害者」という言葉が胸に突き刺さった。
 最後の日は、20年ぶりに南部の戦跡をめぐった。
 姫ゆりの塔と資料館、平和の礎、アブチラガマの見学。姫ゆり資料館では、既に語り部の人たちはいなかったが、映像の中で、戦争の悲惨さを語っていた。
 平和の礎では、6月23日の沖縄の慰霊の日のテントが張り巡らされていた。
 空は真っ青で、日差しが照りつけ、70年前もこんな暑さだったのかと思う。
 アブチラガマは、予約なしであったが、案内役の人の手配がついて、見学できた。
 壕の中は、ほとんど、当時のままで真っ暗闇であった。
 真っ暗闇のなか、ガイドの語る当時の悲惨な状況を思いやった。
 出口の急な階段(当時はなかった)の登りから、太陽の光が見えたとき、日の光がこんなにありがたいのだと実感した。
 その後、道の駅などで沖縄の野菜、果物などを大量に買って岐路に就いた。
(区職労会計・区労協議長 小林秀治)