自治体の公共性と民間委託 | ||
以下の内容は、二○○二年十月に区職労が主催した行革問題学習会で神戸大学の二宮厚美教授が講演した内容と同じもので、自治体研究社から出ている同氏の論文の一部を掲載しています。 | ||
自治体の公共性と民間委託 |
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はじめに いまなぜ公共性と民間委託か 九〇年代半ば以降、民間企業ばかりではなく、全国どこの自治体でもリストラが大流行になってきました。これは自治省が九〇年代版の自治体リストラを煽るために、九四年に地方行革推進の指針を提示したことによっていますが、地方自治の趣旨・精神とは正反対に、馬鹿馬鹿しいばかりに全国画一的な自治体リストラが横行しています。そのきわめつきの見本となっているのがアウトソーシング、つまり自治体業務の外部委託とか民間委託です。全国どこの自治体でも、地方行革というと、それこそ判で押したように民間委託の方針が並べられています。 その様子は一種の世紀末バブルというべき状況です。だが、この民間委託バブルに酔いしれ、浮かれ踊っていると、かつての土地・株バブルがそうであったように、それがはじけたあとに深刻な不良債権がどさんと残ります。誰が、このツケを払うのか。土地・株バブルと違うのは、民間委託バブルが崩壊したそのあとで、後始末に苦しまなければならなくなるのは、株主でも不動産屋でもなく、地域・住民だということです。自治体もその受難者の人になります。自治体が外部委託のどぶろくに酔っぱらってその正体を失い、酔眼朦朧として公共的業務の放棄に走ると、宴のあとの二日酔いさながら、自治体はその存在意義、自らの存在根拠の喪失感に襲われ、自暴自棄の愚に陥りかねない、この点も重要です。 全国の先進的自治体は、戦後日本の地方自治のいわば黄金時代というべき革新自治体の時期に、ヨーロッパでいうと福祉国家にあたる原型、つまり日本型福祉国家のミニチュア版というか、福祉国家の試作品を数多くつくってきました。六〇年代半ばから七〇年代後半期にかけた約一〇年は、まさにこのミニ福祉国家建設の実験がさまざまな地域で行われた時期にあたります。公害規制、環境保全、教育・福祉の充実、住民参加など、いまでもその遺産が有形・無形の形で各地域・自治体に根強く名残をとどめています。 ところが、自治体リストラを推進する勢力からみると、この革新自治体の遺産は邪魔で邪魔でしかたがない。これをなんとか打倒したいという思いが強くなってきます。その動きは、すでに八〇年代の臨調行革期にあらわれていたのですが、しかし、住民運動の力はなかなかにしたたかで、そう簡単に地方自治のエネルギーやミニ福祉国家型自治体の生命が失われることはありませんでした。 現在、社会保障・福祉の分野において、特に保育や老人介護で民営化・民間委託化が強くあらわれているのは、こういう理由によっています。私は、自治体リストラ推進の中心的イデオロギーは新自由主義にあって、新自由主義というのは戦後福祉国家の解体を主目的にした思想にほかならないと考えています。一言で言うと、自治体リストラをとりまく構図は「新自由主義か新福祉国家か」という対抗関係で把握することができると考えているのですが、この構図でいくと、保育・教育・医療・介護などの分野で、かつて革新自治体がその試作品をつくった福祉国家型行政に新自由主義が民間委託の大攻勢をかけて自治体リストラをせまるというのは、それなりに理解できることです。 たとえば介護保険は、そもそも介護保障を意図して導入されたものではなく、そのため介護サービスを提供する事業体は基本的に民間に属するものと想定されていました。そこで、自治体が介護保険適用の指定事業者にならないところが生まれて、ヘルパーの解雇問題やパート化、非常勤化が進行することになりました。公立保育所などではまるまる民営化される方向が各地であいついで打ち出されています。 一言でいうと、自治体の仕事を根拠づけてきた公共性が問われているわけです。 さらにまた、清掃や学校給食のような「現業」といわれる職場では、先陣をきって民間委託が行われていましたが、この動きがいっそう広がっています。現業職といっても、清掃は廃棄物処理、リサイクル問題、環境保全などとかかわる公共部門の重要な一環であり、給食というのも食の安全や食文化、食をとおした教育、さらには食料生産・確保のあり方にかかわって、あらためてその公共性が問われている分野です。公共事業の民間発注は、いまさら言うのもおこがましいほどに、古くからアウトソーシングがすすんでいますが、ここではPFIという新たな手法が導入されようとしています。これは、公共施設の企画立案から設計・施工、資金調達から管理まで民間事業者が行う方式ですから、いわばきわめつけのアウトソーシングです。 これらの新動向をいま自治体の公共性からみて、どう評価するのか。ここがいま問われているわけです。 この問題は、視点をかえていえば、自治体職場で公務労働の位置やあり方が問われていることを意味します。民間委託が際限なくすすめられ、自治体の公共性が希薄になると、公務労働者のあり方、公務労働の存在意義が問われてくるわけです。仕事のすすめ方が、コスト比較論や効率至上主義で評価されるようになってしまうと、価格やコスト情報だけでは評価できない公務労働の質が捨象されざるをえません。保育所での子育ての役割、学校給食の意義、清掃のリサイクルの役割など、公務員が担っている労働の質・専門的役割についての意義をあらためて立証していく必要に迫られているのです。 そこで、この本では、いま全国で吹き荒れている民間委託問題の本質を明らかにし、これを批判をすることを通じて地方自治体の公共性、公務労働のあり方を考えていきたいと思います。 |
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第1章新自由主義的福祉改革と福祉・保育の民営化 (以下省略) 1、新自由主義的行革ビジョンと社会サービス市場化路線 〔新自由主義とはなにか〕 〔新自由主義はなぜ台頭してきたのか〕 〔福祉における新自由主義のあらわれ〕 2、戦後福祉行政の三原則と公的責任 〔福祉の公的責任とは何であったか〕 3、新自由主義路線と福祉・保育の基礎構造改革 〔新自由主義的福祉改革の磁場〕 〔保育改革の開始とエンゼルプラン〕 〔児童福祉法改正の意味〕 〔保育における民営化の開始・進行〕 4、民営化・営利化・商品化の三位一体と二階建て福祉 〔保育の公共性と営利性との衝突〕 〔保育料補助方式による保育の商品化〕 〔福祉の二階建て階層化〕 第2章自治体の公共性と公共的基準 1、公共性と公務労働の再発見・再認識 〔そもそも公共性とは何か〕 〔公務労働の専門性を深める〕 2、自治体の公共性を決める三つの基準 〔公共性の第一基準は住民の発達保障〕 〔住民の評価能力ヘの着眼の意義〕 〔公共性の第三基準はコミュ二ケーション的自治保障〕 3、地域・自治体に確立した三つの公共空間 (1)地域住民の共同利益と「公論」 (2)憲法の人権保障空間 (3)地域的公平性 |
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第3章自治体の民間委託と公民間コスト比較論 本章から、自治体業務のアウトソーシング問題を考えていくことにします。本書では、保育所と学校給食については別に章をおこして検討することにしますが、それに先だって、 まずここでは民間委託全般にかかる問題点を洗い出しておきます。 自治体リストラの一環としての民間委託は、現在進行中の自治体リストラの三本柱の一つに位置づけられたものです。 まず各自治体で進行中の自治体リストラの第一の柱は自治体の減量化、スリム化で、自治体の業務や守備範囲を見直し、公務員の定数を削減し、人件費の安上がり化を図ろうとするものです。ここでは、特に定員削減が大きな問題になっています。 第二の柱が、自治体業務の民間移管、民間委託化です。これは、自治体が現に担っている仕事そのものを廃止できない場合、その公的責任の緩和や低廉化、また市場化を意図して進められ方法です。福祉分野におけるそのネライは、本書第1章で検討したとおりです。 第三は、公務員に対して能力主義・成績主義的管理を強化することです。給与体系の見直し、昇進昇格の競争主義等がこれにあたります。全体としては、公務員制度の見直しがこの動きの背後にあるといっていいでしょう(たとえば、自治体人事制度研究会『教員・公務員の業績評価制度を問う』自治体研究社、二〇〇〇年、を参照)。 本章が問題にするのは、このうち第二の柱です。まずは、民間委託推進のさいの最も強力なイデオロギーである「公民間コスト比較論」から検討していくことにします。 1、公民間コスト比較諭の構成とその問題点 まず民間委託の論理をかいつまんで紹介しておきます。民間委託を進める議論の代表は、粗雑ではあるがなかなか手強い公民間コスト比較論に立つそれです。その典型は地方自治経営学会の見解(一九八四年およびその単純繰り返しの九五年調査・見解)、そしてその代弁者坂田期雄氏(東洋大)の主張に求めることができます。ここでは坂田氏のものから引いておくと、公民間コスト比較論に立つ民間委託論のほとんどすべては、次のような主張に凝縮されていると見てよいと思います。 「行政改革を進めるには、まず第一に、コストの高いシステムからコストの低いシステムヘ切り替える、高コストを是正し、それによって財源を生み出すということである。そして具体的には、サービスがほとんど変わらないのであれば、@『コストの高い″公立〃(直営)』から『コストの低い″民間″(委託)』へ、A『コストの高い″正規職員〃』から『コストの低い〃嘱託〃″パート〃』へ、切り替えていくということである。」(坂田期雄『分権と地方行革』時事通信社、一九九六年、八九ページ) この見事なまでに単純明快な主張は、地方自治経営学会報告『公立と民間とのコスト比較』(九五年)でもそのままそっくり繰り返されているもので、マスコミ等がコスト比較を紹介するときの論拠もおなじです。あらためてその論理を整理すると三点にわかれます。 第一は、公民間のコスト比較を基準にしたコスト効率主義の視点にたっていることです。これは民間委託のほうが安上がりでかつ効率的であるという論拠になっていきます。 第二は、「サービスの質が変わらないのであれば」という条件つきで民間委託を推奨していることです。つまり、委託に出してもサービスの質が落ちないし、同一水準に保たれるというサービス水準の同一視論がここでの特徴です。 第三は、民間委託とあわせて賃金比較を基準にした正規職員の非常勤・パート化を提唱していることです。これは、民間委託をテコにして行政内部に低賃金労働を導入しようという意図を物語っています。 これらの要するにコスト効率主義視点、公民間サービス同一視論、低賃金労働活用論の一つがここでの民間委託推進論の論拠になっているわけです。以下では、この三の論拠にそくしてコスト比較論の問題点を見ていきたいと思います。 (1)安上がり・効率性優先論の問題点 まず第一に、コスト効率主義はその「効率概念」に照らして三つの問題点を持つと考えられます。というのは、およそ効率概念は費用と効果のバランスの問題からなっていて、@期待される行政サービスの効果・成果とは何か、A行政サービスに要する費用とは何か、行政サービスに民間と同様の効率概念を適用するのは妥当か、という二つによってその有効性が左右されるからです。 @行政の仕事がもつ外部効果をみる まず行政サービスの効果に対する評価において、民間委託論はその効果を個別的に評価することをもって効率をとらえる点に特徴があります。たとえばゴミ処理・清掃事業の公民間コスト比較をする場合には一トンあたリゴミ収集に要する費用はいくらかを問題にし、学校給食でも一食あたりコストの公民間比較を行うという具合いにものごとをとらえます。このような行政サービスの個別的評価の欠陥は、いうまでもなくそのサービスの有する効果の総合的評価に欠けることです。総合的・長期的な評価を問題にする場合には、経済学でいうところの外部効果を評価することが肝心になってきます。 行政サービスの一つひとつはしばしば波及効果とかスピルオーバー効果と呼ばれる間接的効果を必ず伴うものです。たとえば学校給食の教育効果、安全対策上の効果、夏休み等での地域・還元効果などはその一例を物語っています。清掃事業でも、その事業がリサイクル社会化に向けた取り組みを担っている場合には、その効果は単にゴミ収集一トンあたりの費用計算でははかりきれません。ゴミの収集は委託できても、ゴミを減らす事業はなかなか委託できないとか、調理作業は委託できても給食全体のもつ教育効果は委託できないといわれるのはこのためです。したがって、コスト効率主義はその効率計算において、肝心の効果そのものを総合的に評価していない点において重大な欠陥をもっていると言わなければなりません。 私はかつて、岩手県沢内村の面白い話を聞いたことがあります。老人医療無料化にいち早くふみきった全国でも有名なこの村で、当時の診療所の院長にあった増田医師は、村に提案してナイター設備つきのグランドをつくったというんです。この発想が面白い。村には若い人たちがたまって遊んだり、スポーツを楽しんだりする施設がない。そこで、楽しみといえば、夜、遠くの町まで飲みにでかけることだけ。ところが、これによって交通事故にあうとか健康を損なうということがバカにならない。この医療費が国保料を上げる一因になっているというわけです。若い人たちが地元に集まって外で飲食をしなくてもよくなれば、交通事故が減り、健康的で、医療費も減るというので、ナイター可能なスポーツ施設を作った。若い人たちが集まるスポーツ施設と医療費は関係がないように見えますが、総合的にみると外部効果でつながっている。こういう点を評価していかなければならないわけです。 同じようなことが保育所についてもいえます。北海道に標茶町というところがあります。人口一万人たらずの小さな町ですが、一〇〇〇平方キロという東京二三区全部の面積の一・七倍の広大な面積に牛が四万五〇〇〇頭もいる酪農の町です。ところが人口一万人末満なのに、町には常設六カ所、僻地八カ所の保育所があります。その研修に招かれて私は行ったのですが、人口が分散しているので、子どもが数名しかいない地域でも町立の僻地保育所を開設して保母を配置しています。 にもかかわらず町立の保育所を廃止せよという声はあがっていません。なぜかというと、酪農家は厳しい労働条件のもとで、共働きでないとやっていけません。若い酪農家が町に定着できるようにしようと思ったら、共働きに不可欠の条件である保育所が必要だからです。保育所は子どもを育てるために不可欠な施設であるだけではなくて、いわば牛を育てるうえでも不可欠な意味をもっている。標茶町の保育所は、保育そのものをつうじて、町の酪農主体の産業、地域経済を支えるという総合的効果を発揮しているわけです。保母さん方もこれを誇りに思い、働きがいの一つとして理解している。コスト面からみても、短期的な保母の人件費を比較するだけではつくせない効果を生みだしているのです。 そのほか、ごみの直営収集によって五種分別が可能になれば、リサイクルセンターが建設できるようになるし、ここを拠点にして循環型地域社会づくりが可能になります。実際、私の住む吹田市や名古屋などではリサイクル運動と結びつけて、たとえば障害者の共同作業所が成立し、波及効果をうみだしています。こうした評価は、ごみ一トンの収集費がいくらという短期的・個別的なコスト比較ではでてきません。 A本当に安上がりなのか 次に、コスト比較のときの費用をどうとらえるか、という問題があります。コスト効率主義が問題にする費用は、およそ短期的な費用です。そこでは、行政サービスの長期的費用、したがって長期的効果はそれほど問題にされません。公民間のコスト比較に用いられる費用とは長くても一年間の費用、短い時にはホームヘルパーの場合がそうであるように一時間あたり費用です。短期的費用計算や比較がまったく無意味であるとは言えないにしても、行政サービスでは同時に長期的費用・効果を問題にすることが重要であり、また長期的評価の尺度をもち得る点に行政ならではのメリットがある場合も多い点に目をむけることが大切になります。 一般にコスト比較では、一人の子どもにいくらかかっているかとか、給食一食あたりいくらかかっているという個別的・短期的な効果や費用を計算しています。確かに、こういう計算はすべて無駄とはいいません。全体として効果をあげようという場合に、個別的な効率性計算が必要な場合もあります。しかし個別的・短期的な計算では行政の効率性は測れないということをはっきりさせることが重要です。 その端的な事例は、医療・保健・教育サービスに見ることができます。老人医療・保健・福祉の充実が短期的にはそれらのコストを引き上げたとしても、老人の健康・福祉水準の上昇という長期的効果が生み出される場合には、長期的に計算したコストが安くつくという結果になる。逆に、短期安上がり主義が老人の健康を悪化させて、長期的にはむしろ高くつくこと、さらなる医療・保健・福祉の費用を招く場合だってあるのです。短期的・個別的な費用論でいけば、例えば国保料を安くしようと思えば、医者にかかる機会を減らせばよいということになってしまいます。しかしそんなことをすれば、中でやっかいな治療を必要とする患者さんがむしろ増えます。政府でさえも早期発見・早期治療を言っているように、長期的・総合的にみれば早期発見・早期治療の体制、つまり医療へのアクセスをより開放的にしておくほうがいいということになるわけです。 費用を長期的視点から評価することに加えて、さきに述べた総合的視点も重要になってきます。というのは、民間委託による行政のコスト削減が、逆に住民にとっては高くつくという場合だってあるからです。JRの赤字路線廃止で、地域経済がこうむる費用は長期的・総合的には高くつくことになったのはその例です。 また、保育の章で触れますが、保育や教育・保健・介護等の対人社会サービスを担う労働はその専門性の獲得が長期にわたる経験の蓄積を必要とするために、雇用の継続的保障が重要であり、その効果も長期にわたって評価しなければ公平にならない、という問題もあります。 ですから住民運動の側は、行政がリストラを打ち出してきたら一年間とか二年間の短期的なコスト計算ではなくて、五年分、一〇年分の長期的な比較計算を要求していくことが大事になります。もちろん、長期的・総合的なコスト比較はそう簡単にはできません。目に見えない費用、長期的な費用は、推測はできても完全な計算はできません。情報が十分に開示されていない現状では、住民運動が計算するのはたいへんです。だが、本来はそもそも短期的なコスト計算だけを持ち出してやろうとするのが問題なのであって、委託をしようという側が長期的・総合的な試算をして住民に提示すべきなのです。住民運動の側は、きちんとした長期的計算ができていないのに、短期費用をもちだしてきてかたづけるのはおかしい、と主張していかなければなりません。 B人権・民主主義はコストでは測れない 最後に、行政サービスに民間と同様の効率概念を適用するのは妥当かどうかという問題があります。人件費が安ければ安いほどよいという論拠に対しては、人権はコストでは測れないということを対置すべきです。保健でも保育でも学校給食でも、専門性が問われる仕事は効率性概念だけではとらえられない質と権利保障性をもっていることを主張していかなければなりません。 それはたとえば学校教育のケースを考えてみれば明らかになります。公民間コスト比較論者は、私の知るかぎり、小中学校教育を例にあげて、たとえば公立教育と民間の塾のコスト比較をやった試しがありません。あるいは地方自治経営学会が、学校警備・用務サービスの公民間コスト比較には熱心であったとしても、市民警察とセキュリティ会社のコスト比較を正面からとりあげたことはないでしょう。なぜ、このようなコスト比較をしないかといえば、それは、小中学校教育や市民警察業務の場合には単純なコスト比較による民間委託論がなじまない、と考えているからにほかなりません。つまり、こと人権保障にかかわる分野については単純なコスト効率主義があてはまらない、ととらえているわけです。 もちろん、アメリカのようにコスト効率主義視点を人権保障に優先させて、学校教育も一部警察業務も、また刑務所の管理運営ですら、民間委託に乗り出すという例がありはしますが、日本の都市経営論者はそこまで徹底するにはまだ臆病で、そこまではいっていません。これを逆にいうと、現代日本のコスト効率主義者は保育・福祉だの学校給食だの清掃事業だのといった分野を人権保障上さして重要とは考えていないこと、つまり人権を軽視してコスト比較論を適用しようとしていることを物語っています。 人権や民主主義はコストだけでははかれない要素がどうしても残ります。人件費の尺度だけで、たとえば地方議員の定数削減を主張するのは、本末転倒というか、民主主義の自殺行為というべきです。要するに、現代日本のコスト効率主義論の最大の欠陥は人権保障視点に弱いこと、コスト比較の定量分析はやるが、公共サービスの質にかかわる定性的分析に目をむけないことにあるといわなければなりません。 (2)「サービスの質は落ちない」論の問題点 次の問題は、公民間サービス同一視論です。民間委託論者の前提は「サービスの質が変わらないのであれば」という条件つきで、公共サービスを安上がりの民間に委託すればよい、あるいはすべきであると主張する点に特徴がありました。 そこで問題なのは、民間委託でも公共サービスの質に変わりがないと前提することが妥当かどうか、ということになります。ここではその前提にはただちに三つばかり問題点があることを指摘しておきたいと思います。 @公務労働の専門性の軽視 その一つは、公共サービスの担い手の専門性が正当に評価されていないことです。 公務労働の専門性についてはその獲得のために長期にわたる雇用が前提にされなければならない場合が多くあります。 たとえば、保育所の保母の専門性は大づかみに見ても、私は約一二年間の経験が必要であると思っています。なぜなら、ゼロ歳の乳児から就学前の児童まで年齢別の六年間の保育は、少なく見積もってもそれぞれ各年齢ごとに二回、つまり合計一二年間の保育経験を必要とします。 これは、小学校教師が一人前になるには、各学年担任をそれぞれおよそ二年間試行錯誤のうちに経験しなければならないこと、したがって合計一二年間を必要とするのに同じです。 保育・教育・介護といった対人社会サービス労働は非定型的労働であるために、その専門性は実際の現場をふんだ体験・経験が必ず必要とされ、したがって長期雇用が保障されなければなりません。民間委託論者が主張するような、短期アルバイト型雇用によってこの専門性をカバーすることはとうてい困難なわけです。つまり、民間委託が安上がりであることの秘密をなす短期・低賃金労働の活用では、公務労働の専門性を保障することは難しいと考えなければなりません。 そもそも、公民間でコスト差がでてくる秘密は人件費の違いによります。公共サービスは圧倒的に人件費の占める割合が高く、コスト比較を左右するのは最終的には人件費の差です。公共事業は装備や技術の水準にかなり左右されますが、ごみ収集とか給食とか保育、また社会教育施設の管理などは人件費の要素が非常に大きくなります。人件費の差は公民間の給与体系の差異、雇用形態の違い、労働者の勤続年数の差などによって生まれてきます。現行制度では、公務員の給与は年功序列型で定期昇給があります。この賃金体系のありかたの是非については別として、人件費の違いをもたらす最大の要因は、この公務員の給与体系に比べて、民間はパートや非常勤で人件費の低廉化をはかり、職務給とか業績給制度をとり入れて人件費全体の抑制をはかっている点にあります。 ここでもっとも重要な点は、この人件費の違いのなかに、民間では長期雇用を前提にした熟練形成、労働の専門性が保障されにくい構造が見えてくるということです。 つまり、公務員では保障される長期の雇用による熟練形成とか専門性が、民間では制度的に保障されない形になっている。保健の仕事、保育の仕事、調理の仕事や栄養士の仕事を果たすうえで、固有のノウハウや知的熟練は必要がないのかといえば、けっしてそんなことはありません。あとでも述べるように現場の仕事、とりわけ人と直接ふれあう仕事はコミュニケーションを媒介にした知的熟練が非常に大事なのです。 私は民間職場に働く労働者一人ひとりの努力や仕事への熱意をけっして軽視するつもりはありませんが、民間委託推進論者が、民間の安上がり労働でも仕事の質は落ちない、公務員と変わらないというとき、この推進論そのものには公務労働の知的熟練と専門性に対する軽視があると思います。 A自治体の官僚機構化 第二は、仮に現業関係の比較的単純な業務、したがって専門性に比較的薄い仕事を民間委託するとした場合でも、問題が残ることです。たとえば、ゴミ収集やホームヘルパー、給食、受付事務、施設管理などの仕事は保育・教育・保健等の専門職とは違って、公民間で専門性にさほどの違いはなく、したがってコスト比較の視点から民間委託を進めても問題はない、という議論がありますが、これは一面的です。 というのは、この種のアウトソーシング論は先に述べたように、現業関係の仕事にも求められる熟練や専門性を軽視していること、これが第一。それから、いま一つは、この種の議論がしばしば「企画・立案部門については公立直営、執行・現業部門は民間委託」という単純な分業論にたち、いわゆる「頭の労働と手足の労働の分業論」に与していることに問題があります。 誤りは、「手足の労働」をもたない「頭の労働」は乾からびた寒天でしかないこと、手足を持たない頭はスが入った大根のように味も素っ気もないものにならざるをえないことを理解していない点にあります。このことは、たとえばホームヘルパーを公務員として持たないところでは老人保健福祉計画(地方版ゴールドプラン)の策定という頭の仕事を民間のシンクタンクに委ねてしまったこと、清掃業務の民間委託に走ったところでは地域リサイクル計画の策定をも民間にアウトソーシングせざるをえなかったこと、それどころか大々的な民間委託を進め現業部門をほとんど持たなくなった自治体ではその基本計画や長期総合計画の作成すら民間のシンクタンクに依存せざるをえなくなっていることにハッキリとあらわれています。 たとえば地域に密着した公務員ヘルパーがいないままに介護保険計画とか老人保健福祉計画をつくれたかというと、やれない。やれたとしても官僚は現場をしりませんから机上の計画しかつくれない。これから、介護保険のもとで住民から要望や苦情をよせられても、実際に介護労働にあたる手足の部分を自治体が確保していないと、たんなる斡旋・制整、民間事業者を紹介することしかできなくなる可能性があります。苦情の中身も机上のマニュアルで想像するしかないということになるでしょう。これは自治体がその手足部分をアウトソーシングするなかで官僚機構化の道を歩むということを示しています。 保健行政についても同じことが指摘できます。「自治体にはたらく保健婦のつどい」という集会が毎年ひらかれていて、私も時々招かれるのですが、公衆衛生の分野では保健所が統廃合されています。保健所が統廃合されて、保健婦の仕事のしかたが地域担当制から業務別担当制になると、保健婦の仕事は情報処理、縦割り行政のデータ処理・管理になる傾向が生まれて、実際の仕事は医師会とか民間医療機関とか市町村保健センターあたりに委託する動きが強まってくるというわけです。実際に保健婦が地域を訪問する回数がぐんと減っています。しかし、健康情報というのは単なる情報、数字からうかがえる情報だけではだめなのです。地域を歩き、生活ぶりに目を向け、その耳で聞いた情報がもっとも生き生きとしていて、保健活動の現実的な力になるのです。データバンクから引き出される情報はともすればひからびています。一人ひとりの保健婦が地域の現場を歩いて蓄積した情報とノウハウこそ何ものにも勝ります。これによってこそ、保健婦はあらゆる事態に対応できるわけで、公務労働としての保健婦の仕事は、何ものにも代え難い生きた情報・技能によって支えられているのです。 ちょっと話がそれますが、あるリサーチ会社の人に聞いた話では、地域に店舗を出店する計画を立てるときに一番やりたい調査は家庭ごみの中身を調べることなんだそうです。家庭ごみを調べると、この地域の住民はどんな商品をどこの店で買っているかがだいたい分かるそうです。ごみには生活情報が濃縮されています。いまはもちろんプライバシーの問題があるので中身まで調べることはできませんが、回収の現場をみて回るだけで地域の生活状態・暮らしぶりをうかがうことができる。実はこれを逆にいうと、そういう地域の生きた情報があってはじめて循環型地域社会ビジョンを立てることができるのであって、現場をしらないリサイクル計画は机上の空論になってしまいがちです。そこで最後は、計画立案という「頭の仕事」もアウトソーリングされてしまうことになるわけです。 「山のことは山に開け、川のことは川に開け」という格言がありますが、山にも川にもその現場で耳を傾ける公務労働者を持たないで民間任せにしたところでは、自治体の頭の機能を受け持つ本庁中枢も乾からびて、山・川の肉声を聞くことはけっしてできないのです。これは、「企画・立案機能と執行・実施機能の分離」を主張するアウトソーシング論が必ずぶつかる難問だと思います。 一点つけ加えると、最後は政策立案・企画機能もアウトソーシングされてしまいますから、けっきょく行政に残る仕事は権限の配分と財源の配分、つまり発注の振り分け業務だけになってしまいます。そうなると、これをテコにしてますます官僚機構化がすすむし、住民の目も届かなくなります。内部チェックも起こらないから腐敗や浪費がまん延します。最近、警察の不祥事が連日のように報道されていますが、これはその象徴的なあらわれです。 BVOICE(発言)の選択と・EXIT(退出・退避)の選択 三つめの問題は、公立直営と民間委託では住民の公共サービスに対するアクセスの違いがあらわれることです。アクセスの違いというのは、モノやサービスにして、利用者がその選択をするときに違いが生じるということです。 たとえば公立直営のサービスの場合、それに不満があった場合、住民はまずいわゆる「voice(発言)の権利」を行使します。保育にせよ、清掃にせよ、施設管理にせよ、それが自治体の公設公営である場合には、住民は自ら要求とし不満とするところを声をあげて自治体に主張します。そしてまた、自治体の公共サービスにはこれに応える義務があります。英語の応答(response)は、責任(responsibility)と語源が同じで、自治体の住民要求に対する応答は、同時に応答責任があるということを意味しています。これが住民自治の原点です。 ところが、民間サービスの場合には、かつてA・ハーシュマンが分類したように、サービスに不満がある場合、さしあたり選択するのは「exit(退出)の権利」の行使になります。イグジット(exit)の権利とは、ダイエーがいやならジャスコを選ぶという選択権のことをさします。民間の市場における選択の基本は、この退避・退出の選択が基本です。ある衣服店に出かけて気に入ったものがなければ、その店を出て、別の店に向かうというのがそれです。 つまり公共サービスは、それが自治体から直接提供される場合と、民間業者から提供される場合とでは、仮にそのサービスの質が同じものであったとしても、住民の選択肢に違いがでてくるわけです。保育所を例にとると、民間保育所の場合、さまざまな保育所を相互に比較して、あたかも三越がよいか高島屋がよいか西武がよいかを比較するのと同様に、どこかの保育所を回避(exit)して別の保育所を選ぶということになりますが、これが公立保育所の場合には、公立保育所の保育時間・条件・内容等に口をはさみ、注文をつけ(voice)、自治体の保育行政そのものに参加するということになっていきます。このexitの選択とvoice選択の違いは、やがて提供されるサービスの質にも影響し、反映することにならざるをえません。 いま政府は、新自由主義的福祉改革を進めるにあたって、しきりと福祉サービスの選択の自由ということを宣伝していますが、この場合の選択はあくまで退出・退避の選択です。しかしながら、公共サービスには住民の発言・参加が不可欠です。この点は、前章の自治体の公共性の基準でも確かめました。退出・退避の選択ももちろん住民の権利の一部ですが、それとあわせて発言・参加が可能な仕組みにしておくこと、これが実は自治体の住民自治原則にかなった道なのだと思います。したがって、住民自治という原則を発展させるうえからも、安易に民間委託に走ることは許容されません。 (4)安上がり嘱託・非常勤対応の問題点 さて最後に公民間コスト比較論の第三の問題は、民間委託推進が低賃金活用論にたっていることでした。これは要するに、民間委託にしない場合には、アルバイトやパートで対応して安上がり行政を進めたらよい、ということになります。この議論のなかに、民間委託推進論の正体というか本質、つまり低賃金活用の美徳を説く本質があらわになっています。 この種の主張の盲点は、その根拠そのものにあるといわなければなりません。つまり、自治体が民間の低賃金をいいことに民間委託を進めることは、あたかも低賃金労働を持ちあげ、それを抜け目なく活用し、つまるところその低賃金水準を地域的に是認することを意味することになります。だがしかし、自治体は労働行政を担い、住民生活の向上や地域の生活水準の引き上げを課題にした公共機関です。その自治体が民間委託の名で低賃金労働にたかることが果たして是か非か、この点を不問にふすことはできません。 さらにまた、もともと公務労働者には職務専念義務があります。なぜそういう義務があるかというと、これまでにも強調してきたように、その仕事には専門性が求められるからです。このために身分の保障や給与の保障がなされているわけです。こういう仕事をアルバイトやパートで対応するということは、その分野の仕事の水準を低下させ、また先に述べた長期雇用を通じて蓄積される熟練などを軽視することを意味しているわけです。 アルバイトやパートで対応して労働条件や身分保障には目をつむるといったことを率先して推進するのは自治体がやるべきことではありません。公共行政は地域住民の生活を守り、ナショナルミニマムを保障する責任があることをはつきりさせなければなりません。 以上、民間委託を推進をする論拠を検討し、これを批判してきました。ただし、ここで言っておきたいことは「批判としてはこういうことが言えますよ」ということであって、現実に公務労働者の側で、そのことを裏打ちする実践がなされていなければ、どんな理論的批判をくわえても民間委託を阻止することは難しいということです。最終的には、公務員の仕事のしかたと質が問われるわけですから、公務労働者として、自らの職場や仕事に誇りと使命感をもって取り組んでいくことが求められているのだということを強制しておきます。 そこで本章では、続いて、民間委託推進論が公務労働の専門性を軽視したり、またその固有の知的熟練性を無視したりするのにたいして、公務労働の専門性にややたちいって、それと民間委託の関係を見ておくことにします。 2、公務労働の技術・技能と民間委託 (1)公務における物質代謝労働と精神代謝労働 私は、本書第2章において、自治体の公共性の基準は、@住民の発達保障、A住民の発達保障を担うインフラストラクチャ保障、B住民のコミュニケーション的自治保障、これら三点に求められるということを確かめました。これらの三つの基準は実際には公務労働によって担われています。たとえば、第一の住民の発達保障は保育・教育・介護・公的扶助・保健、また給食・廃棄物処理・各種事務諸活動によって担われています。また第二のインフラ保障は上下水道・建築・防災・公園等の建設・管理・運営によって遂行され、第三のコミュニケーション的自治保障は統計・広報・議会事務等の労働によって担われています。 これらの三つの基準にもとづいて自治体の公共性を担う労働が公務労働にほかなりません。そして、この公務労働は、一般の労働の分類に立つと二つに大別されます。 その一つは、主にインフラ保障の労働がこれにあたりますが、人間と自然の物質代謝を直接に担う労働です。この労働は自然や加工物にはたらきかけ、農業や製造業に代表されるように、物質的富を再生産していく労働にあたり、いわば自然活用・改造型の労働といえます。この労働によって人間は衣食住をはじめさまざまな物質的富を手に入れて生活していくことができます。これをここでは「物質代謝労働」と呼んでおきます。物質代謝というのは、時に質料転換ともよばれるもので、人間が自然に働きかけ、生活に必要なものを取り入れると同時に、不要になったものを自然に返すことをいいます。 いま一つは、人間そのものの再生産を担う労働、つまり生殖から保育・教育・介護等にいたる生命の再生産保障労働です。この労働は人間が人間に働きかけてその生命の再生産を保障するものです。これは人間が人間に直接働きかけ、人間に固有の文化や能力を継承・発達させる労働のことで、保育や教育、介護、医療、芸術等がその典型をなしますから、仮にこれを「精神代謝労働」とよんでおきます(精神代謝の概念は、尾関周二『言語的コミュニケーションと労働の弁証法』大月書店、一九八九年、参照)。精神代謝という意味は、人間が人間に働きかけ、相手の発達をよびおこすと同時に、自らも発達するという相互作用がある、ということです。 実際には、これら二つの労働は重なりあう場合が多くあります。たとえば医療・介護等の労働は、食物や医薬品、医療・福祉機器等の物質的富を活用して進められますし、教育でも実験だとか、給食のように物質的富の利用をともないます。とはいえ、これら二つの労働を区別することには意味があります。いま重要なごとは、これらの物質代謝労働と精神代謝労働には形式的にみて共通性と異質性があることです。それを確かめるためには、労働過程に目を向けておかなければなりません。 労働過程は一般に労働そのもの、労働手段、労働対象の三要素から構成されます。 福祉の労働過程を例にとると、それは福祉労働、福祉労働手段、福祉労働対象の三要素から成り立っていることがわかるはずです。物質代謝労働と精神代謝労働との違いは、前者の労働対象がモノにあること、それにたいして後者の対象=相手はヒトであること、ここに求められます。たとえば、施設建設や公園管理の仕事は施設や公園というモノを相手にしたものであるのに対して、教育・福祉労働は人間を相手にした労働です。労働対象がモノかヒトかで労働は大きく二つにわかれるわけです。 ただし、ふたつの労働はともに労働手段を用いる点では共通しています。モノを相手にした建築や各種加工の仕事は道具・機械等の労働手段を使用して進められ、また教育・福祉・医療でも教育機器、福祉器具、医療機器が使用されます。この労働手段の利用という点では、二つの労働には違いはないわけです。 (2)公務労働におけるコミュミケーションと技術的構成 さて、ここから話を進めると、公務労働の専門性にかかわっていくつかの重要な論点が導きだされてきます。これをここでは三点指摘しておきます。 まず第一は、モノを相手にする物質代謝労働とヒトを相手にする精神代謝労働では、労働過程で人間と人間のコミュニケーションが成立・進行するかどうかで大きな違いが生まれることです。 教育・福祉等の精神代謝労働では、教師・保育士・ヘルパーと生徒・子ども・要介護者の間にコミュニケーションが成立します。これに対して、モノづくりの物質代謝労働では、擬制的意味でのコミュニケーションはあったとしても、言葉本来の意味でのコミュニケーションは成立しません。なぜなら、前章でも指摘したように、コミュニケーションは人間と人間の間の了解・合意を形成する行為であって、これは人間関係のなかで問題になることだからです。 そうすると、住民の発達保障やコミュニケーション的自治を担う公務労働は精神代謝労働に属しているために、すべて住民とのあいだにコミュニケーションが成立することになります。 コミュニケーションには、人間関係のなかの決まったルールのように、ある程度定型化・規格化できるコミュニケーションと、人間関係の多様性・個性にねざしたやりとりのように、定型化できないコミュニケーションの二つがありますが、実際には、この定型・非定型両者のコミュニケーションが同時に進行するのが現実の姿ですから、ここに固有の熟練や専門性が問われてくることになります。たとえば、ホーム・ヘルパーは要介護者に対してある程度定式化できうる介助方式にしたがって仕事を進めますが、同時に、相手にあわせた言葉かけや介護動作をとらなければなりません。 教育・福祉・医療等の対人社会サービスは精神代謝労働であり、その労働過程にコミュ二ケーションが成立するという点を見ると、要するに、教育・保育・福祉等の労働はコミュニケーション労働である、そしてこのコミュ二ケーション労働には相手との了解・合意が前提になって進められるから、すべて知的熟練や国有のノウハウが不可欠になるということ、これがここで確かめておきたかった点です。 なぜいまここでこの点を確認するかといえば、だいたい推測がつくだろうと思いますが、このコミュニケーション労働に内包される知的熟練は賃金などのコスト情報だけでは評価できないということを言いたいためです。 この点についてはまた後にたちかえるとして、次に第二点目として注意しておいてよいことは、労働過程における技術的構成の違いです。「技術的構成」というのは、ここで労働力と労働手段との素材的比率だと理解しておいてください(厳密にいうと、労働力と生産手段との素材的比率をさす)。たとえば、一台の機械に一人の労働者がはりついて仕事をしている場合と、三台の機械を一人の労働者が操作している場合とでは、労働力と労働手段の間の比率関係が異なっています。 一般的にいうと、生産力が高まっていくにしたがつて、この労働手段/労働力の技術的構成は高くなっていきます。つまり、一人当たり労働者が使いこなす道具・機械が増えていきます。また、物質代謝労働と精神代謝労働とを比較すると、労働におけるこの技術的構成は前者において高く、後者において低いという違いが認められます。たとえば、モノづくりの製造業では技術的構成は高く、教育・福祉・看護等では技術的構成はさほど高くありません。サービス業はしばしば労働集約型の領域でなかなか機械化できない、人手に依存する度合いが高い、といわれるのはこのことをあらわしているわけです。 技術的構成の高い領域では、たとえば製造業を思い浮かべればわかるように、技術(機械等)の水準が生産性や効率を左右し、競争手段として決定的な意味をもってきます。自治体の仕事でいうと、先述の「住民の発達保障を担うインフラストラクチャ保障」にかかわる事業分野、つまり建築・建設、土木、廃棄物処理、交通、通信等の分野では、技術的構成が高いために、製造業などと同じように、技術水準がきわめて大きな意味をもってきます。さらにまた、最近ではコンピュータ技術の発展によって、自治体の「住民のコミュニケーション的自治保障」にかかわる労働分野でも、情報処理・加工における技術水準が生産性や効率を決定的に左右するようになってきました。 簡単にいうと、公共事業や情報・通信を担う公務分野では、全体として技術的構成が高く、技術の占める位置や意味が格段に高くなってきたということです。そのとき問題なのは、公共セクターと民間セクターを比較して、どちらが技術上優位を占めているか、ということです。現代は資本主義社会ですから、その答はいうまでもなく民間、すなわち民間企業が技術上の主導権を握っています。技術水準の比較で公共セクターが劣った場合、その仕事分野では比較的容易に民間委託や民営化が進行しやすくなるのは、見やすい道理です。 公共事業、情報処理分野で民間委託やアウトソーシングが進む基本的な理由はここにあります。これは、単純に民間が安上がりだから外部発注・委託化がすすむ、というのとはちょっと性格が違います。公務における精神代謝労働分野では、技術的構成が低く労働集約型であるために、もっぱら安い人件費に口実をもうけて民間委託が進められるのにたいして、技術的構成の高い公共事業や情報処理領域では、民間技術の主導性によってアウトソーシングが根拠づけられる。この両者の違いに目を向けておかなければなりません。これにどう対応するかについては次節で考えてみます。 さて第三に、これとかかわって見ておかなければならないのは、技術と技能の関係です。注意深い方には理解していただいていると思いますが、本書で私はこれまで技術と技能をかなり厳密に使いわけてきました。ここでは、技術論にいう「労働手段体系説」に依拠して、技術とは道具・機械等の労働手段の体系を意味し、労働過程で発揮されるワザとか熟練、スキルとかクラフトと呼ばれるものはすべて技能として扱ってきました。技術論にたちいるいとまはないので、簡単にいうと、人間白身の外にあって客観化されている物的諸手段を技術、人間白身の内部に形成され蓄積された能力は技能として、両者を区別してきたわけです。 このように技術と技能を区別しておくことは意味があります。なぜなら、たとえば世間でしばしば使用されている教育技術だとか福祉技術、看護技術などの言葉は、この技術と技能が区別されず、両者がまぜこぜにして使われている場合が圧倒的だからです。これは適当ではない。 教師がビデオや実験器具を利用して理科や保健の教育をおこなうとき、ビデオ等の教育機器は技術ですが、生徒たち一人ひとりにどう教えるのか、どういう手順で学ばせるのか、どのように話すのかという問題は、教育方法、指導手順等に属することですから、教育労働上の技能の問題であって、教育技術ではありません。これは大工が鉋を使うときに、鉋そのものは道具=技術であって、板の削り方、鉋の使い方はワザ・熟練、つまり技能に属するのとおなじことです。もしここで、生徒にたいする教え方やしゃべり方、教育方法、指導の手順などを教育技術として一括して理解してしまうと、教師自身の労働能力に属する固有の熟練や技能としてはほとんど何も残らず、教育労働の中身が空洞化してしまうことになります。 これは保育・介護・看護・給食等の労働にもあてはまります。そこで使用される遊具、車椅子、ベッド、調理器具等は明らかに技術に属しますが、これらの労働手段と子どもとの接し方、患者への言葉かけ、調理のさいの味付けといった工夫やワザ、心づかい等とを混同して、一切合切を保育・介護・給食の技術として理解してしまったら、技能の入り込む余地はまったくなくなってしまいます。技能をもたない労働は内容空疎な単純労働であり、保育士や介護士、調理師等の労働の専門性は、それを問うのが無意味なほど、問題にならなくなってきます。 要するに、技術と技能の力テゴリーを区別してとり扱うことの意味は、技能を労働能力の重要な要素として把握し、公務労働の内容を技能面から豊かな内容を持つものとして再評価していく点にあります。保育所の保母たちは保育技能に豊かな能力をもつから、保育労働の専門的内容も豊かになる。調理師・栄養士は給食技能に豊かだから、調理技術に解消できない専門性を発揮できる。介護士は福祉器具にまかせられない介護技能を必要とするから、すべてをロボットにまかせることはできない。こういうことは、技術と技能の概念的区別にたってはじめて了解されることになるわけです。 こうしたことは、コミュニケーション労働としての精神代謝労働にあてはまるだけではありません。公共事業や情報・通信関係等の技術的構成の高い物質代謝労働にもあてはまります。公共事業における建設・土木・建築関係の技術がどんなに高度な水準に発展したとしても、設計・デザイン・文化等にかかわる固有のノウハウ、つまり熟練・技能部分は残ります。また、コンピュータの技術発展にともない情報収集・処理・加工・流通の技術が高度化したとしても、情報処理のいわゆるソフト部分、つまり情報関係のノウハウや技能は人間の判断領域として残るわけです。したがってこれらのノウハウないし技能にあたる部分を公共性の視点からどう評価するか、私たちはこの問題を考えていかなければならないことになります。 さて、以上のように公務労働の中身を労働過程から、またそれぞれの労働の特質や技術・技能の面から眺めてくると、自治体の民間委託問題についても、先に検討した「公民間のコスト比較論」に依拠した民間委託推進論との問題点とはひと味違う問題領域が浮上してきます。そこで本章の最後に、この公務労働の専門性と民間委託の問題についていま一度あらためて検討しておくことにしたいと思います。 3、公務労働の専門性と公共部門の固有性 (1)コミュニケーション労働としての公務労働の保障 先に確かめてきた三つの公共性基準のうち、「住民の発達保障」と「住民のコミュニケーション的自治保障」を担う公務労働は、直接に住民を相手にした労働であり、したがって公務労働者と住民との間にコミュニケーション関係が成立します。 労働の専門性を問うときには、その労働が、@誰を相手にした労働なのか、A何を目的にした労働なのか、Bどのような労働方法、方式をとるのか、という三つの基準が重要になってきますが、いま問題にしている公務労働は、まず住民を相手にしていること、その目的は住民の発達と権利を保障する点にあること、そして方法としてはコミュニケーションを媒介にすること、こういう点の特徴を帯びてきます。 そこで、公務労働は一般的に住民の権利・発達保障を目的にしたコミュニケーション労働である、と言いかえることができます。「住民の発達保障を担うインフラストラクチャ」にかかわる公務労働も、直接にはインフラそのものを対象にしているものの、間接的には住民が相手の仕事ですから、公務員と住民の間にコミュニケーション関係を見ることができるはずです。ただここでは話をわかりやすくするために、コミュニケーション労働としての性格が目に見えてわかりやすい教育・保育・福祉・保健・医療等の公務労働を例にとって議論を進めることにしましょう。 先にもふれたように、コミュニケーション労働には定型化、マニュアル化が可能なコミュニケーションと定型化が不可能ないし困難なコミュニケーションの二つに大別できますが、現実の労働過程ではこれら二つは融合し一体になって進行します。したがって、コミュニケーション労働の核心部分は機械化が困難です。 コミュニケーションは、人間と人間との交流や共同作業の過程、そして相互の了解・合意を前提にして進められるために、働きかける人間が違えば、その個性に応じてたえず対応に変化が生まれます。ハンバーガーショップの売り子さんは、接客の際の応対が徹底してマニュアル化されているために、私はそのやりとりにロボット相手の味気なさを感じますが、そこでは言葉本来の意味でのコミュニケーションは成立していないわけです。これは自動販売機にとってかえたとしても、なんら不都合は生じません。 ですけれども、教育・保育・福祉等でのコミュニケーションではそうはいきません。ここでのコミュニケーションは、言葉をかえていうと、教師・保母等が子どもに働きかけ、子どもの応答・発達・変革を呼び起こすと同時に、働きかける教師・保母の側も自ら発達するという関係をうみだすために、一つの「共受関係」をつくりだします。「共受」とは、読んで字のごとし、互いに受け合い、互いに享受しあうという意味です。コミュニケーションの場としての教育・保育・福祉はいわばこの共受能力を発達させる場なわけです(共受概念については、二宮厚美『生きがいの構造と人間発達』旬報社、一九九四年参照)。 要するに、共受関係のなかの教育・保育・福祉は定型化、マニュアル化されたコミュニケーションだけでは通用しないのです。ここに固有の知的熟練が必要とされます。この熟練は、定型化されるものについては、いわゆるoff-JTでの研修や訓練、つまり教科書や講義などで学びとることが可能ですが、定型化できえないものについてはOJT(on the job training)、つまり労働現場の体験・経験を通じて習得しなければなりません。先に私は、保母や小学校教師はおよそ一二年間務めてやっと一人前ということを言いましたが、これはこの経験をつうじた知的熟練の獲得・蓄積の重要性を指摘したものです。 知的熟練には次世代への継承が必要ですから、それに必要な経験年数を考慮にいれると、教育や保育のようなコミュニケーション労働は、二〇年間とか二四年問やってはじめて、専門家としての仕事をまっとうしたとも言えます。保育所や学校や病院では、経験の薄い若い教師・保母・看護婦だけでもだめ、かといってベテランだけでもまずく、知的熟練の蓄積と継承をあわせもつ世代間バランスが必要になってくるわけです。 こういうことは、実は住民白身が承知ずみのことで、たとえば、若くて元気はいいが経験に未熟な二〇代教師ばっかりの学校や、逆に経験は豊富だがいささか活力にかける四〇、五〇代教師だけの学校を望むかというと、そうはならないわけです。 このようにコミュニケーション労働がもっている知的熟練の必要に目をむけると、人件費を圧縮して短期雇用やアルバイトのような使い捨て型の民間の雇用形態では、公共サービスの質を保てないことが明らかになります。繰り返して指摘しておけば、民間に委託しても保育や給食のサービスの質は保たれるというコスト比較論の論拠は、このコミュニケーション労働の専門性を見ない議論だったわけです。 (2)コミュニケーション労働の人権保障的性格 いま一つ、コミュニケーション労働として教育・保育・福祉を評価するときには、その労働はいわば論理必然的に人権保障的性格をもたざるをえない、という点に目をむけておくことも大切です。つまり、コミュニケーション労働は住民の発達を担うということとあわせて、同時並行的に人権保障の課題を担わざるをえないのです。 というのは、そもそもコミュニケーション的行為というのは、J・ハーバマスをはじめ多くの人々が主張してきたように、人と人が相互の了解・合意を追求・達成する行為だからです。たとえば、私たちが日常行う対話コミュニケーションは互いの了解・合意を追求し、合意する行為にほかなりません。もちろん、人をだますとか、誘導するとか、命令して何かをやらせる、といった会話もあるのですが、これは目的追求型行為(または目的論的行為)なり戦略的行為を意味しているために、概念的にはコミュニケーション的行為とは区別されます(J・ハーバマス、河上倫逸他訳『コミュニケーション的行為の理論』未来社、一九八五年、参照)。 人間相互の了解・合意を追求する点にコミュニケーションの何よりの特質が求められるとすれば、教育・保育・福祉では、仕事の相手である子どもや老人等のサービス受給者の要求・意見・希望を聞き取り、読みとることがコミュニケーションの出発点になります。対話コミュニケーションの例をとっていえば、話し手は子ども・老人であり、教師・保母・介護士は聞き手にまわるわけです。教育・保育・福祉労働では、教師・保母等がまず相手の側の声を開きとり、汲みとることで、相互の了解・合意が形成され、そこではじめてコミュニケーション労働としての性格が発揮されることになります。 このことは、子どもや老人といった住民側にニーズを主張する権利、要求や希望の声をあげる権利を認め、それを保障してはじめて教育・福祉のコミュニケーション労働が進む、ということを意味します。コミュニケーション労働として教育・保育・福祉をつかんだ瞬間に、それは論理必然的に人権保障的性格をもたざるをえない、といった意味はここにあります。 教育・福祉等の精神代謝労働の分野では、これを労働過程として眺めると、教師・保母・介護士等は他ならぬ労働主体として、労働対象である住民とのコミュニケーションを媒介にしてその発達を保障する主役でした。ところが、同じ精神代謝労働をコミュニケーションの過程として眺めてみると、互いの了解・合意の追求に向けて最初に声や要求を発信する主体は住民の側にあって、労働者はその聞き役にまわります。端折っていうと、労働主体としては教師・保母・介護士が主役ですが、コミュニケーションの主体としては住民が主役になり、いわば主客が逆転するわけですが、この主客逆転が繰り返し繰り返し進行するなかで精神代謝労働が進む、ということになるわけです。 この関係を保障するためには、一方では精神代謝を担う労働者にはコミュ二ケーションを担う専門的労働権の保障を、他方、住民側には自ら要求や声をあげ、その実現を主張する人権を保障していかなければなりません。 ここに、コミュニケーション労働としての公務労働が住民の発達保障と人権保障を同時に担わざるをえない根拠があるというべきです。コスト比較をたてにとった民間委託推進論が住民のvoice(発言)の権利を軽視し、人権保障を軽んじていたことは先に見たとおりです。 (3)発達保障のインフラストラクチャと公務労働 次に見ておかなければならないのは、公務の分野でも比較的技術的構成の高い領域の問題です。先にも述べたように、技術的構成の高い社会資本の分野では民間企業が基軸また先端技術を握っているために、保育や福祉分野とは違った根拠に依拠して、民間委託・アウトソーシングが進められやすくなります。 その典型的な姿は、大規模プロジェクトを中心にした公共事業分野に見ることができます。建設・土木事業を主とする公共事業は、それが大規模になればなるほど、主にゼネコンに握られていて、公共機関は技術的優位性はもとより現業性も失っています。かつてなら、道路建設・補修や港湾整備、ダム工事も国・自治体両方の公務労働者に担われる工程がまだ多く残っていましたが、高度経済成長の過程を経て、民間の技術レベルが上がってくるにしたがって、外注化が進み、いまではプロジェクトの立案から設計、そしてアセスメントにいたるまで民間企業に依存せざるをえなくなっています。 私は、住宅問題研究のリーダーである早川和男先生(神戸大学名誉教授)から直接伺ったことがあるのですが、先生は一九五〇年代には一時期住宅公団に勤めておられました。自ら公団の企画・設計・管理の第一線で活躍なさっていたわけですが、当時、公団の住宅設計・建築技術はゼネコンにまさって業界の最先端に位置していた。ところがその後、住宅行政の公共性が徐々に後退させられるなかで、公団直営の仕事が縮小し、技術者が減らされ、外注化が進み、じわじわと内部技術が空洞化していく。かわってゼネコン等の力が強くなっていった。つまり、公共部門の技術的優位性が浸食されるなかで、住宅行政の公共性が後退していったというわけです。 こういう例は、廃棄物処理の分野でも問題になっています。たとえば廃棄物の焼却処分については、大型の高温溶融炉をつかったダイオキシン発生防止技術が民間主導で開発される。ところが、高温溶融炉施設というのは、いったん炉に火をいれると、一定量のごみを連続して投入し、安定的に稼働させる必要が生じる。そのためには、奇妙なことになるわけですが、ごみの量を継続して確保しなければならないというジレンマが生まれます。おまけに、高温溶融炉のコストはべらぼうに高い。そうすると、このような技術に過度に依存すると、廃棄物処理行政の公共性と衝突せざるをえなくなります。 情報通信技術の分野になると、事態はさらに複雑になってきます。ME・OAはもとより、近年のインターネットに見られるとおり、いわゆるIT(information technology)の主導権は民間が握っています。情報技術が民間主体となり、それとともに情報処理・保管・加工が民間中心になっていくと、建設事業の民間優位とはまた違った意味での公共性の問題が発生します。たとえば、金融取引はIT革命のもとで完全にグローバル化していますが、これに対して国税庁や税務署は取引・所得情報を捕捉する技術をもっているとはいえない。これは税務の持つ公共性の空洞化の進行を物語っています。住民基本台帳法の改正で住民の情報プライバシー侵害の危険性が高まっていることも、ひとつの公共性の危機を物語っています。 もちろん、ここで民間主導の技術がダメだといっているわけでは毛頭ありません。技術は、もとより当該社会の生産関係に規定される面がありますが、それゆえに使い方しだい、開発の方向しだいという性格をもっており、その活用方法が問題になるわけです。そのとき、九九年七月に制度化された新しい民活方式、いわゆるPFI(private finance initiative)のような方式に依存しすぎると、これはたとえば施設の企画・設計・建設・管理・運営のほとんど全面にわたって民間主導で、行政は民間から一定の契約にもとづいてサービスを買い取るという方式を意味していますから、公的な事業や施設が民間企業の利害にふりまわされてしまう、民間企業の採算を行政がバックアップすることにとどまってしまい、公共性が形骸化せざるをえないことになります。この点を正確に評価した対応が求められるわけです。 その対応において留意すべき点をここでは三点指摘しておきたいと思います。 まず第一は、すでに述べた公共性の三つの基準に照らして、公共部門に技術・技能を残し、それらを継承・発展させることです。たとえば、公共事業、情報処理、廃棄物処理等の分野で重要な技術を民間に丸投げしない、企画・立案・設計・管理等と結びついた技術は公共部門内部にできるだけ蓄積する、ということが必要です。それと同時に、技術の発展過程で起こる単純労働化についても、公共性をもちあわせた技能・熟練を保存する。その際には、地域の中小企業との連携をはかり、地域経済の振興と結びつけて各種公共事業の配分を考える、地域経済のなかに公共部門の役割を生かすという視点が重要になるだろうと思います。 第二は、民間の技術を活用する場合にも、公共的規制を強めることです。特に、公共事業が大型化したり、先端技術が営業の秘密のもとでベールをかけられたりすると、大型公共事業や情報処理等が住民の目から切り離され、官財癒着にもとづく密室行政化が進行していきます。 公共業務が官僚化し密室化すると、住民は、何が大切なのか、どういう部分が公共的なのかということを判断する材料をもてないし、たとえ関心をもっても発言権が保障されていなければ、自分たちは関係がないということになって、公共性をもった仕事が住民から乖離していきます。そうなったら、住民の判断基準として、効率性とかコスト比較情報が非常に入りやすくなって民間委託がさらにすすみやすくなるという悪循環が生まれます。これは公共事業が大型化すればするほど起こりやすくなります。これには新たな民主的規制のあり方を専門家の手も借りながら検討するしかありません。 第三は、技術の発展が逆に社会資本の建設・管理に新たな公共性の課題を呼び起こす点に注意することです。交通・道路・港湾・施設・上下水道・廃棄物処理などで高い技術が生まれると、その技術は高い社会性をもたざるをえないために、新たに公共的規制の必要性を高めていきます。最近の廃棄処理技術やリサイクル技術は、この端的な事例を示しており、たとえそれらの技術が民間企業に担われたとしても、新たな公的規制や監視・監督が必要になることを物語っています。リサイクル技術等は民間企業に逆に公的責任を求めるような社会的仕組みを必要としています。 また、コンピュータ技術の飛躍的発展による情報処理は、各種情報そのものの公共性をむしろ高めるようになってきました。プライバシー侵害やネット犯罪の増加は、この公共財としての情報の重要性を示しています。マスコミやインターネット、モバイル機器の発展がコミュニケーションの私的空間と同時に公共空間を拡大していることもその例です。 技術の発展が民間主導に担われるにしても、その技術そのものが社会性や共同性を帯びているために、逆に技術上の公共空間を高めている側面があるわけです。この点に注目した公共性、IT革命時代における公共性と公務労働の縮小ではない、むしろ新たなあり方が問われていると思います。 |
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第4章保育所民営化と保育労働の専門的公共性 自治体サービスの民間委託の問題点、特に公民間コスト比較に依拠した民営化・民間委託の問題点については、すでに前章までにその基本的内容を述べてきましたので、本章および次の5章は、その応用篇にあたります。応用問題としては、住民および公務労働者双方から見ていまもっとも大きな争点になっている保育所、学校給食の二つをとりあげることにします。 ただ、応用篇のため、論点は前章までの議論と重複する面があります。重複はできる限り避けたいと思っていますが、あらかじめ了解をいただきたいと思います。 1、保育政策の流れと公立保育所の位置 (1)保育政策のなかの民営化問題 公立保育所の民間委託や民営化の動きは、九〇年代の半ばぐらいまでは、全国の保育運動の力もあって、清掃や学校給食、施設管理の分野に比して、それほど目立つた動きではありませんでした。動きが全国化するのは一九九七年の児童福祉法改正以降です。児童福祉法の改正と民営化・民間委託の活発化は無関係だとする見解がありますが、第l章でも説明したように、私はそうは見ませんc 児童福祉法改正以前の民間委託化の動きは、いわば自治省主導で先行的な実験がなされてきました。自治省が地方行革の旗をふりはじめるのは一九八〇年代半ばのことですが、その前後から都市経営論者が口火をきった公民間コスト比較が流行し、保育行政の分野にもその影響が強くあらわれてきました。ただし、八〇年代にはまだ厚生省そのものが前面にでて、保育所の民間委託化を直接に推進するようなことはありませんでした。八〇年代前半には、むしろベビーホテル内の乳幼児死亡事故などがマスコミの話題になり、民間保育の問題点が世間の注目を浴びていました。 この構図はただし、九〇年代半ばになると大きく変化してきます。第1章で指摘したように、それは保育のみならず福祉全般にわたって「民営化・営利化・商品化の三位一体的追求」が本格化してきたことによります。この新自由主義的な福祉改革の構図のなかでは、民営化はその突破口に位置づけられることになります。そしてまた、この図式のなかでは、民営化は単に安上がり保育を目指すものだけでもないということになります。戦後福祉の構造をその根本のところから転換する、というのが新自由主義的改革のもっとも大きなネライでした。 厚生省は、もともとは児童福祉法の改正によって保育制度の仕組みを一気に変えたかったわけですが、全国の保育運動の力によって阻止されました。そこで保育制度からみれば、いわば回り道、バイパス作戦が採用されていきます。その一つは、高齢者福祉分野に介護保険を成立させて、民営化・営利化・商品化の枠組みを作りだし、障害者福祉をそれに便乗させることでした。これはすでに見たように、二〇〇〇年四月の介護保険のスタート、六月の社会福祉事業法等の改正によって軌道が敷かれました。いま一つは、児童福祉法改正に隠された仕掛けを潜ませておくことと、さしあたり民営化・営利化の道を切り開いておいて、将来の商品化の露払い役にすることです。この二つの迂回作戦がとられたわけです。 この視点からみれば、児童福祉法改正を含む保育政策の動向と自治体における民営化・民間委託の動向とは別物であって、両者は切り離して理解しなければならないとする見解は、民営化・営利化・商品化の三位一体化を意図した新自由主義改革路線に対抗する運動からみれば、一種の武装解除をせまる見方だといわなければなりません。労働組合のなかでも、民営化・営利化・商品化それぞれの連動した動きが充分評価されないまま、たとえば介護分野や障害者福祉の分野と保育分野のあらわれを統一してとらえきれないとか、個々の自治体における民営化には反対するが、全国的な営利化の動向には対応しきれないとか、公立保育所と民間保育所両方にまたがる保育運動が形成されないとか、とまどいがみられます。 そこでここでは念のため、もう一度簡単に、保育の新自由主義的改革にとってなぜ公立保育所が邪魔者になるのか、なぜ民営化が進められなければならないのか、という点のおさらいをやっておくことにします。 (2)直接契約型利用方式と公立保育所の不要化 保育の民営化・営利化・商品化を制度的枠組みのうえで成立させるためには、保育サービスの需給調整を直接契約型方式に委ねる必要があります。直接契約型方式というのは、一般の商取引と同じように、保育サービスの利用者が保育所から契約にもとづいてサービスを買い取ること、つまり一定の保育料や保育条件等を前提にしてサービスの売買契約を結ぶことを意味します。そのときに、保育サービスの契約過程や契約条件にたいして仮に一定の公的規制が課せられたとしても、それは直接契約型方式という形式自体を左右するものではありません。この直接契約方式のもとでは、保育市場が形成されます。この市場は公的規制付きという意味では、たとえば一般医薬品の市場、公衆浴場、アルコール市場などに近くなってきます(もっとも、これらの市場も最近では規制緩和で自由化されつつありますが)。 保育の場合、この契約型利用方式が導入されると、保育サービスの利用者と提供者(保育所)の両方に、従来とは大きく異なる変化がうまれます。 まず利用者の側には、高額所得層は除外するとして、一般に保育所を利用するにあたって利用者補助金(保育料補助金)が支給されるようになります。なぜ補助金が支給されるかといえば、たとえば現在ゼロ・一歳の乳児の保育費用は全国平均で一か月約一六万円強とされていますが、その全額を若い親に支払わせるのは無理だからです。そこでもし公的機関から九万円の利用者補助金が与えられるとすれば、その九万円に自腹を切った七万円をあわせて合計一六万円の保育料を利用者が保育所に支払う、という形になっていきます。保育料補助金九万円は、この場合、保育サービスを買い取るときの公的補償分ということになっていくわけです。 この方式のもとで、保育料補助金九万円を現金ではなく、保育バウチャー(買い取り切符)で支給したとしても、仕組みの基本はなんら変わりありません。なぜなら、保育所は親の負担金七万円と九万円分のバウチャーを手にいれたあと、バウチャーを福祉事務所あたりに提出して現金化してもらえば、それですむことだからです。新自由主義者がしきりと保育バウチャー方式を提言している理由はここにあります。 このような仕組みは、これまでの措置制度または現在の保育所運営費制度とは一八〇度違った流れを、まず公的資金(税金)の流れにおいてつくりだしていきます。 現行の仕組みは、保育所の運営に必要な費用は保育単価を積算した税金の支出で支えられています。つまり、国と自治体の折半による税金によって各保育所は運営されています。これは、公立保育所であれ民間保育所であれ同じです。利用者の支払う保育料は、各保育所の金庫に人るのではなく、自治体財政の一般会計諸収入に組み込まれます。公立であれ私立であれ、制度の仕組みから見ると、保育所は親から保育料を稼いで運営している、というものではないわけです。この点、一般にはかなり誤解があって、保育所は親の保育料で運営されていると思っている人が多いのですが、現行制度上は親の保育料と保育所の運営費とは別物である、保育所は公民問わず税金で運営されている、と理解しておくことが肝心です。 ところが、保育所の直接契約型利用方式が導入されると、この構造が大きく変わります。 まず第一に、各保育所は基本的に親の払う利用料を財源にして運営される、という形に変化せざるをえません。一言でいえば、保育所は独立採算で運営されるということです。これまでのように、税金が保育所運営費の名で保育所に直接投入されることはありません。これは何を意味するかというと、論理的にいって、公立保育所は不要になるということです。保育所はすべて親の支払う保育料を稼得して運営していけばよい、ということになりますから、わざわざ公設公営の保育所を設置する必要はありません。このような動きは、すでに老人福祉分野では、介護保険下で自治体が介護サービスから手を引くという形になってあらわれていることです。 つまり、保育の民営化・営利化・商品化が徹底して進むと、その先では公立保育所は不要になる、不要になるのであれば今から公立保育所を民営化しておくにこしたことはない、民営化になんのはばかる必要があるものか、という筋書きがここに見えてくるはずです。 第二に、親の支払う保育料にも従来とは違う構造がうまれてきます。先に述べたように、親は「自前負担分プラス利用者補助金」によって保育所に保育料を支払う形になりますが、このとき、保育料は子どもにかかった保育費用をもとにして設定されます。保育の費用はゼロ歳の赤ちゃんと三歳の子どもでは保母の配置数等の違いによって異なってくるために、基本的に年齢別料金表になってきます。ということは、従来の各家庭の所得階層別保育料、負担能力別保育料が受益者負担原則に立つ均一保育料に変化することを意味します。保育費用は大半は人件費、つまりおよそ八割は保育士等の給与で占められているために、各保育所はその人件費等を保育料で回収する形になるわけです。 ところが、保育士の給与を保育コストとして計上し、これを親の支払う保育料で回収するとなると、ここにまたやっかいな問題が発生せざるをえません。 まずだれもがわかることは、公務員としての保育士の給与と均一保育料方式はただちに矛盾せざるをえないことです。公務員の給与は定期昇給型で勤続年数によって異なります。この給与体系は、たとえば保育職であれば、性・年齢をとわず誰でもおなじという職務給とは異なるために、これを保育費用として勘定に入れ始めると、それぞれの子どもやクラスの保育費用はその受け持ちの保育士の給与しだいで変化させざるをえません。極端にいえば、勤続年数の高い保母が受けもつクラスの保育費用は高く、若い保母が受け持つクラスの保育費用は低く、これによって保育料も異なるといった馬鹿馬鹿しいことが起こるわけです。 さらに、公務員の給与を保育費用として計算し、それを保育料で回収するという考え方は現在の地方財政法と矛盾してきます。よく知られているように、地方財政法では、「市町村の職員に要する経費」は「住民にその負担を転嫁してはならない」とされています(同法27条の4、同法施行令)。だからこの点でも、独立採算型の保育経営は公立保育園と衝突してくるわけです。 以上のように見てくればわかるように、新自由主義的な福祉・保育改革の動向と公立保育所の民営化は別物ではなく、両者を切り離してとらえることはできません。公立保育所の民営化は保育制度全体が構造的に変えられようとするなかの重要な動きだということをおさえておかなければなりません。 (3)公立があることのもう一つの意味 公立保育所の存在意義でいま一つ考えておかなければならないことは、公立保育所をとおして自治体は逃れようのない保育の公的責任を負っていることです。 先に見たような新自由主義的保育・福祉改革が仮に今後すすめられたとしても、全国各地域に公設公営の保育所、また特別養護老人ホームとか障害者作業所などが残っていると、自治体行政はそれらの福祉サービスの供給責任から手を引きたいと思っても、最終的にそれはできません。公立の施設があり、自治体直営のサービスが供給されているかぎり、自治体は逃れようのない責任を直接に負っているわけです。 言いかえると、自治体直営のサービスにたいして住民は先述のvoice(発言)の権利、つまり行政にたいして発言し、要求を主張する権利が残されています。地域住民や親から行政努力による施策の改善が要求されれば、議会や行政はこれに頬かむりするわけにはいきません。たとえ、直接契約型利用方式になったとしても、その契約先が公立保育所であれば、住民と行政の権利・義務関係が残るために、自治体の公的責任はなお生き続けます。 実際に、日本の戦後保育行政は公立保育所を中心にして発展してきました。老人福祉施設などと違って、保育所では過半の施設が公立で占められていたことが日本の保育水準を高めるうえで決定的な意義をもっていたといって過言ではありません。民間の保育所は、公私間格差是正の運動が実証しているように、公立保育所の築いた保育条件を志向しつつ、そのなかで公立とはまた違った先進的保育実践を重ねてきた、という歴史があります。民間保育所を軽視するというのではなく、むしろ民間保育所の水準を引き上げるためにも、公立保育所が果たしてきた役割、そこでの公的責任の重さを重視していくことが肝心です。 この点をおさえて、次に民間委託・民営化推進論の問題点をみていくことにしましょう。 2、保育所の民営・委託推進論とその批判 当初、保育所の民営化・民活路線が活発になったのは、大都市圏、特に政令指定都市だったと思いますが、その手法はだいたい共通していました。特徴的なのは、概して公立保育所の建て替え、改築をきっかけとして、民営化の動きが強まることです。保育所が建ってから三〇年近くも経過すると、そろそろ建物・設備も老朽化し、設計も新しいものに模様替えする必要がでてきますが、改築計画で住民からすれば新しい施設でよくなるかなと見えた瞬間、同時に民営・委託化のプランが抱き合わせに提示される、というのがよく見られるケースです。 現在は、それが全国に普及してきわめて意図的・計画的に民営・委託化が進められようとしています。公立保育所全廃という極端なプランも生まれています。民営化の方式は、たとえば大阪府堺市あたりに典型を見るように、保育所のいわゆるハコモノにあたる部分は民間に売却し、土地は無償貸与という形が多いようです。民間委託というのは、保育所は公設のままに残すが、その運営については民間社会福祉法人に委託する、ということを意味します。 ここで考えてみたいのは、民営・委託の推進論の根拠です。ただし、すでに本書第3章で民間委託推進論の基本的問題は検討しているので、ここでは簡単にその保育所版のおさらいをするつもりで議論を進めることにします。 (1)民間委託は公的責任の全面放棄の第一ステップ 民間委託推進論はまず第一に、民間に委託したからといって公的責任が失われるわけではないと主張します。委託先が社会福祉法人の場合には、とくにこの主張が使われます。ここでは、仮に認可外の保育所に運営委託した場合でも、児童福祉法からはずれるわけではないから、公的責任を放棄したわけではないという理屈がでてきます。 大阪府堺市では、この根拠で公立保育所の民営化が強行されようとしました。堺市当局は、市内でこれまでまじめに保育所を経営してきた福祉法人に委ねようとしているのであって、公的責任を放棄したり保育の質を下げるということではないと主張しました。それで、公立保育所が民間への売却入札にかけられたわけです。 こういう主張にたいしては、本書で繰り返し強調してきたように、現代日本の保育の民営化は「民営化→営利化→商品化」の三位一体的追求の突破口なのだということをはっきりさせていく必要があります。 これが第一ですが、さらに第1章でみたように、戦後福祉の三原則、そのなかの公的責任の所在を明確にしておく必要があります。すでに見たように、保育の公的責任というのは、@福祉は税金で行うという財政責任、A最低基準を決めて管理する管理運営責任、B公共機関が直接に保育を担うという実施責任の三つを内包するものでした。民営化や民間委託は、このうち直接には実施責任の放棄にあたります。 保育の実施責任というのは、保育の質や内容にかかわる公的責任を公共機関が負う、ということです。この場合の責任は、住民のニーズに応えて保育の実施を行うという責任、つまり英語で言う応答責任(responsibility)にあたります。この応答責任は、保育内容にかかわる専門性を含みます。公立保育所をつうじて、保育に要求される専門的内容を地域に保障し、また充実させていく責任が自治体に問われるのです。 (2)民間の低い給与・労働条件を押しつける 二つ目は、公的責任が果たされ、かつ保育の質が損なわれないのであれば、自治体財政が苦しい折でもあるので、安上がりの民間保育所を利用するにこしたことはない、という主張です。行政当局はしばしばその上に、民間委託によって浮く財源を他の多様な保育施策に利用する、という餌をばらまきます。 問題なのは、なぜ民間保育が安上がりなのか、という点にあります。差異は人件費から生まれる、ということは本書ですでに指摘しました。保育や福祉、教育のコストは、おおざっぱにいって八割以上が人件費から構成されます。物品その他の管理運営費用はそれほど大きな影響をもちません。したがって、公民間のコスト差は要するにほとんどが給与差によるものです。 保母等の給与差がでてくるのは、公立保育所で働く保育士の給与が公務員の給与表に拠っているのに対して、民間の給与は一種の職務給的計算に拠っているからです。職務給というのは仕事の内容が同じならば、経験年数などを考慮せずに同じ給与を支払うということです。 じっさい民間保育所に支払われる人件費は全国共通した計算基準に拠っています。具体的には、国家公務員の行政職二の二等級三号俸の給与を使って計算された人件費が、民間保育所の賃金の原資として支給されているわけです。これは、保育士として二〇歳から働きはじめたとして、およそ五年目の二五歳時の給与にあたります。二年ぐらい前の数字では、その基本給が月額一七万七千円でした。この基本給分しか民間保育所には支給されていないわけですから、簡単にいうと、民間保育所では五年働いたら頭打ちになる給与で保育士たちは働いていることになるわけです。 民間保育所で長く働き続けることは難しく、保母の出入りが激しく、しばしば若い保母が使い捨てにされる理由はここにあるわけです。たとえば、東京都の「社会福祉施設調査報告書」(一九九八年度)によれば、公立保育所の保母(保育士)の退職率が二・六%なのに対して、民間保育所の退職率はその五倍強の一四・〇%になっています。また神奈川県鎌倉市では、民間保育所の保育士の平均勤続年数は約六年ですが、公立の場合は一七年で十一年分の差があります。他の都市でもだいたい同様です 公立と民間の給与体系が制度的に異なっているのですから、コスト比較をすれば民間のほうが安くなるのは当たり前です。この点を考慮にいれると、コスト比較を根拠にした民間委託推進論は、なんのことはない、保育士の賃金は安くてもよい、低賃金こそ利用すべきだという低賃金推進論にほかならず、もっと露骨にいえば低賃金労働への寄生を主張したものにほかなりません。保育所を利用する父母は大半が共働き、すなわち労働者です。保育所で働く者の賃金はできるだけ安いところを利用したらいいという考え方に、同じ働く者として与するわけにはいかないと思います。 ところで、コスト比較をしても差があまりつかない自治体があります。それは東京や大阪です。東京や大阪では、公立と民間の給与ができるだけ同じ水準になるように人件費補助を支出してきました。これを公私格差是正措置といいますが、福祉の仕事を長く情熱を持って続けようと思う人には二五歳で頭打ちになる低賃金では生活もできないし、実際に働き続けることは難しいので、一九七〇年代の半ばに、東京では美濃部革新都政、大阪では黒田革新府政のときにそういう制度がつくられました。東京では、基本的に東京都の職員と同じ給与になるように補助金が支払われます。大阪の場合には、給与の増えかたは府の職員の一年遅れになるように補助金がでます。実際にはもう少し差はありますが、基本的な考え方は公私間是正を目的にしたものです。公私格差是正が行われている自治体では、コスト比較をしてもあまり差が生じません。だから、現在、かたや石原都政が、かたや太田府政が自治体リストラ、福祉いじめの一環としてこの補助制度の見直しに血道をあげているわけです。 どちらが正当な考え方でしょうか。後にみるように福祉を専門職として考え、それにふさわしい処遇を社会的に保障するには、公民間のコスト比較のはるか以前に、まずは専門的労働者として働き続けられるような給与・労働条件を考えるのが筋というものです。コスト比較論の根拠を崩さなければなりません。 (3)多様な二ーズに応えないのは公共の怠慢か 民営・委託推進論の三つ目の根拠は、民間に比べて公立はフレキシビリティに欠けるというものです。民間保育所のほうが夜間保育や緊急時預かり、休日保育などを柔軟にやっている、民間のほうが住民の多様なニーズに柔軟に応えられるというわけです。 夜間保育や緊急一時預かりといった保育施策はこれまで特別保育対策として位置づけられてきたものです。都市部の現状では、週日の朝七時から夕方六時までの約一時間の保育体制を基本にするところが多くなっていますから、仮にそこからはみだす特別保育対策だけを取り出すと、確かに民間保育所のほうが先行しています。ただし、この問題では、次の点を考えておかなければなりません。 まず第一は、保育需要の多様化といっても、もっとも大きな需要は産休あけからの乳児保育の拡充、それと延長保育の需要だということです。この要望は、現代では保育需要の多様性のあらわれとして理解すべきではなく、その基本的・基礎的需要と考えるべきです。したがって私は、乳児保育・延長保育は基本的保育ニーズとして、公民を問わず、きちんとした財政的裏付けを与えて、全国的にその保障に乗り出すべきだと考えます。ということは、乳児・延長保育の拡充は民間委託や民営化の口実にされるべき課題ではなく、全国的にその制度化をはかって対応すべき課題だということです。 なおこの点にかかわって付け加えておくと、堺市ではほかならぬ保母たちの運動もあって、公立保育所で延長保育が実施され始めた直後に、民営化案が浮上するという経過をたどりました。これは、民間のほうがフレキシブルだから公立にまさるという口実が、文字通りためにする議論にほかならなかったことを物語っています。公立だからフレキシブルに対応できない、というのは少なくとも行政サイドが口にすべき議論ではありません。 第二に、夜間保育、緊急一時預かり、病児保育、地域交流等の特別対策については、二つのことを考えておかなければなりません。その一つは、そもそも特別保育対策に対する国の補助金が、まさに霞ヶ関で生活している官僚でしか思い浮かべることができないほど、恐るべき低額にすえおかれていることです。地域子育て支援だとか、休日保育等の補助単価は年間五〇万円程度という水準です。つまり、多様な保育需要に対応できないようにしている元凶は厚生省の施策にあるわけです。 そのうえに指摘しておかなければならない点は、多様な保育需要に対する自治体の責任そのものです。夜間保育や病児保育などは、現状では、一つの自治体内のすべての保育所で一斉におこなうのは無理であり、また現実的ではありません。したがって、多様な保育需要にこたえるには、地域を単位にした保育のネットワークが不可欠です。私たちは、これを私が住む吹田市で検討したことがありますが、多様な保育需要は保健所、公民保育所、幼稚園、地域子育てサークル、病院、学童保育、子育てサポーター等のネットワークをつくり、その結節点に公立保育所が位置づけられるべきだ、という結論に達しました(詳しくは二宮厚美・杉山隆一監修『地域からつくる子育てネットワーク』自治体研究社、一九九七年、参照)。 つまり、保育・子育てにかかわる様々なニーズは民間まかせにするのではなく、むしろ公立保育所を中心にしながら、住民ニーズに対応するネットワークを形成する点に鍵があるのであって、民間委託の推進の口実にはなりえないわけです。 3、保育労働の特質と専門的公共性 すでに見たところから明らかなように、公立保育所の民営化や民間委託を公民間コスト比較を盾にとって推進しようとする議論は、ほとんど唯一の基準といってよいほどコスト情報を重視し、その他の保育にかかわる情報は捨象するか、無視するという点に特徴がありました。だがしかし、保育・教育・介護・医療等における政策では、どちらが安上がりかというコスト情報は政策公準の一つにすぎず、むしろ望ましい選択はそれらの対人社会サービスの質、専門的内容を重視した対応でなければなりません。 特に保育の民営・委託化は、自治体による保育の実施責任が問われる問題であるために、保育の実施にかかわる内容、つまり保育労働の専門性が重要になってきます。そこで、民間委託をめぐる攻防のいわば最後の決戦場の問題として、私は保育労働の専門性にたちかえり、そこから、現在保育所は公立公営型で運営されるのが望ましいという結論を導きだしたいと思います。 (1)コミュニケーション労働としての保育労働 本書第2章で検討したように、保育労働は子どもの人権・発達保障をテーマにした精神代謝労働の一つであり、コミュニケーション労働の一種です。保育を一つの労働過程としてとらえた場合、保育士がその労働主体となってあらわれますが、保育士と子どもたちとのコミュニケーション過程の面からみると、発達・保育ニーズの発信主体は子どもたちであり、保育士は子どもたちとの了解・合意を前提にして、一つの共受関係に入ります。共受関係とは、保育上が子どもたちの発達を担うと同時に自ら発達するという関係、互いが互いの発達を受け合い、共に享受するという関係のことです。 これは看護の労働に似ています。看護の看という字はしばしば指摘されてきたように、手と目という文字を結びつけたもので、看護婦は手と目によって患者に働きかける、すなわちコミュニケーションを媒介にして患者に接します。看護婦は、その動作や表情や言葉で働きかけ、患者を励まし、その潜在的な能力を引き出して病気を克服する手助けをします。これと同様に、保育士も子どもたちの潜在的な能力に非言語的および言語的コミュニケーションを媒介にして働きかけ、その能力を顕在化させる仕事に従事しているわけです。 コミュニケーション労働には定型化可能なものと非定型的なもの両者が含まれます。定型的コミュニケーションとは、朝の挨拶・言葉かけから始まって、遊びやゲームの指導、給食、集団のルール指導、また子どもの状態の把握等、だれもが一定の教科書やマニュアルを通じて習得可能なものです。けれども、保育の現場では、子どもはすべて個性的であり、また時間・場所によって絶えず変化する主体です。これに対応するのが非定型的コミュニケーションということになります。 越河六郎『保育と労働』(労働科学研究所出版部、一九九二年)は、保育の仕事は子どもの動きにあわせるという意味での拘束性が常に働くとして、「相手がいつどこでどのように変化するか予想できないところが特に難しいようである」と述べています。これは非定型的コミュニケーションの様子を語ったものにほかなりません。同書は、そこから「こういった作業の特徴は、〃一刻も気が抜けない仕事です〃という表現となる」と指摘しました(同書、・10ページ)。一刻も気をぬくことができないのは、個性に富む生きた子どもたちを相手にした労働だからにほかなりません。 非定型のコミュニケーションはマニュアル化できませんから、知的熟練が必要です。これは経験によってしか学べません。マニュアルではものにできない熟練が保育の専門性に問われるわけです。田中孝彦氏は「目の前の子どもがなにを求めているかを自分で読みとらず、どう働きかけるべきかを自分で判断せず、どこかにうまいやり方はないかと捜しているようでは、保育の仕事はできるものではない」と指摘しました(田中孝彦『保育の思想』ひとなる書房、一九九八年、75ページ)。まさに自分で読みとり、自分で判断しなければならない点に、コミュニケーション労働の専門性があると言わなければなりません。 さていまここで重要な点は、こうしたコミュニケーション労働としての保育労働の特性から、いくつかの政策的帰結、特にコスト比較にもとづく民営・委託化の問題点が浮かび上がってくることです。 (2)コミュニケーション労働と知的熟練の蓄積 まず、保育がコミュニケーション労働であるとすれば、そこではコミュニケーションが成立する前提条件が確保されなければなりません。 その第一は、だれでもわかるとおり、保育所が生き生きはつらつとした雰囲気の場でなければならないことです。保育士がやつれていてはだめです。子どもたちの前で生活の苦悩でくたびれ、うちひしやがれているようではだめなわけです。それでは子どもたちとのコミュニケーションは成立しません。 このことは単純なことであっても、きわめて重要なことを意味しています。保育士にとってコミュニケーションが大切だということは、保育所が笑顔で働ける明るい職場になっていること、そのための労働条件や保育条件が確保されなければならないこと、一人ひとりの保育士の気の持ち方以前の問題として、これが重要なのです。私は、もうだいぶ昔の話になりますが、二人の子どもを保育所で育て、およそ九年の間、出張等で留守をしたとき以外は、たとえ徹夜仕事のあとでも毎日保育所に子どもを送りつづけてきましたから、保育所のなかで保母さんたちが元気に明るく子どもたちを迎えて入れてくれることの大切さを身にしみて断言することができます。保育所の活気あるコミュニケーションこそは、子どもをそこに託す親からすれば、何ものにもかえがたいほどに貴重な環境です。 この点を見失って、保育労働者の賃金は安いにこしたことはない、少々労働条件が悪かろうと大した問題ではないなどと考えるのは、まったくコミュニケーションを担う保育労働者の苦労を知らない輩の言うことです。これが安上がり保育推進論者のまず第一の欠陥です。 さらに、先に確かめたように、保育労働者一人ひとりが自分で判断する非定型的なコミュニケーションの能力は、一つの知的熟練であるために、その熟練に必要な雇用の継続的保障が確保されなければなりません。第2章で私は、一人前の保育士になろうと思ったら、ゼロ歳から五歳まで、それぞれ年齢別の保育を二回重ねて合計一二年間は働かなければならないと言いましたが、これはあくまでも一つの目安で、一言いたいことは、コミュニケーション労働に要求される専門的熟練を労働者一人ひとりに保障するためには、働き続けようとする者にきちんとした労働権を保障しなければならない、という点にあります。 ところが、民間保育所の現状では、厚生省の施策として五年務めると頭打ちという人件費しか支給されていません。保育に熱心な民間の経営者もこの人件費補助の壁にぶつかって、ベテラン保母の雇用維持に難しさを感じているわけです。いうまでもなく、保育専門職に対する給与体系をどう考えていくかという根本問題は公民を問わず今後検討すべき課題として残るのですが、現行制度のもとでは、公立保育所のほうが保育士の専門性を蓄積するための雇用保障においてすぐれており、民間委託ではなく、民間が公立に近づいていくことが求められているといわなければなりません。 民間保育所の保母さんがたと話をすると、もっと子どもたちに接してやりたいとか、もっと親と話しあいたい思っているけれども、それができないのが残念という不満が出されます。こういう不満そのもののなかに、保育にとって重要な課題が隠されていると思います。保育所で働く人たちは、なにも自分たちのためだけではなく、その処遇や雇用の改善は、子ども、保育所全体のためでもあるという位置づけを明らかにして労働条件や処遇改善を求めていいわけです。公立であると民間であるとを問わず、賃金や労働条件の改善、雇用保障が、保育という仕事そのものの特徴から要請されているのだということ、この点がここで確かめたかったことです。 (3)専門的裁量権の保障と保育の集団性 労働条件の改善と並んで、第二に保育の現場ではコミュニケーションの場にふさわしい自治が必要とされます。これは学校と同じです。 この場合、保育自治には二つの点が重要になるだろうと思います。一つは、個々の保育労働苦にその専門的裁量権を保障することです。保育の現場は、保育士と子どもたちのコミュニケーションの場ですから、いま子どもたちに何が必要か、何が問われるかは、保育士の判断に委ねられます。先にも紹介したように、保育の仕事はひとときも気の抜けない緊張を強いられる場ですから、どこでどう声をかけるか、どんな遊びで子どもの力をのばしてやるか、これらは専門的判断によるしかありません。 いま一つは、保育所の運営に集団性が必要になることです。この集団性は一つのクラスの保育士相互、保育士と調理師、園長を中心にした保育所全体、保育所と保護者、保育所と保健所等という形で広がりをもっています。たとえば、日々の保育でのクラス間連携、互いの論評、保育計画の検討、保育所と親とのコミュニケーション、これら全体にわたって集団的結びつきが必要で、これが専門的裁量が独断・独善に陥らないための条件にもなっていきます。 実は、保育に問われる知的熟練の継承もこうした自治のなかで可能になっていくものです。保育士たちが集団的な自治のもとにあるからこそ、べテラン保母の後ろ姿からその知的熟練を若い保母が学ぶことができるし、互いに援助しあうことができる。また、一刻も気のぬけない仕事であっても、集団の目があるからゆとりやくつろぎがうまれるわけです。 (4)コミュニケーション労働と人間発達、人権尊重 最後に、保育所内外の子育てのコミュニケーションは、子どもと保育士、子どもと親、親相互、親と保育士というように、三者間のコミュニケーションの中で進行するものです。 そのとき、コミュニケーションが成立する前提条件は、本音の対話・交流・共同が進行することです。本音と本音が交流し、ぶつかり、ときに衝突することがコミュニケーションの醍醐味です。だましやすかし、詐欺瞞着、打算計算が入り込むとコミュニケーションではなくなります。 本音のコミュニケーションが進行するためには何が求められるでしょうか。 簡単にいうと、その条件は親、子ども、保育士がそれぞれ人格的に対等平等であることです。人間関係の中に序列があったり、利害がからむと、本音のコミュニケーションが絶たれてしまいます。官僚的な統制を持ち込んだり営利主義を持ち込むと、本音のコミュニケーションは絶たれるのです。官治主義や営利主義が保育所を左右すると、人間的誠実さを基準にした本音のコミュニケーションが崩れていきます。 では、保育所をめぐる人間関係のなかに人格的対等平等性を保障するためには何が求められるか。一言でいえば、それは人権保障の視点を貫くことです。親も子どもも保育上も、互いに人権を保障しあう人間関係のもとにおかれることによって、人格的対等平等性が確立していきます。 保育所のなかの子どもたちは人権・発達保障の主体、主役です。親は、子どもの保育権を保有し、また共働きで生活する権利をもって、保育の現場に関わります。保育所に参加し、父母会その他を通じて発言する主体でもあります。保育士は子どもたちの人権・発達保障の担い手として専門的な労働権をもっています。こういう人権の担い手として子育てのコミュニケーションにかかわるとき、そのコミュニケーションが本来の力を発揮することになるのだと思います。 保育所の民営化は、「民営化→営利化→商品化」の流れのなかで、やがては保育の市場化にいきつく危険性をはらんだ動きを物語るものでした。市場化は人権よりもいわば金権を優先する動きにほかなりません。そこでは、コミュニケーション労働としての保育労働に不可欠の人権保障が形骸化し、したがって子ども・親・保育士相互の人格的対生寸平等性も私的刑宝日や打算の介入によって崩れさります。コミュニケーション労働の場としての保育所は、コミュニケーションそのものの前提条件を確保する意味からも、この民営化を皮切りにした市場化の動きに身を委ねてはならないのです。最後の言葉は、保育所を人権、発達保障のカマドに、結局、ここに落ちつくのだと私は思います。 |
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第5章 学校給食の公共性と民間委託 本章では、自治体の公共性と公務労働の専門性の応用問題として、前章の保育にひき続き、学校給食の問題をとりあげます。学校給食のしくみは、自校直営方式、自校民間委託方式、センター直営方式、さらには自校直営でも職員のほとんどがパート・臨時職員の形のものといった具合いで、さまざまな形態にわかれています。ここではこれらそれぞれについて検討するのではなく、また私にはその能力もないので、そもそも学校給食とは何か、給食労働とは何かという観点で話をすすめていきます。 給食そのものは、私たち人間の生存をささえる仕事ですから、公共機関でも民間でもどこでも、さまざまな形でおこなわれてきましたし、現に日々進行中です。病院の給食もあれば保育所での給食もあり、また企業でも地域でも給食活動はおこなわれています。したがって、給食一般の公共性を論ずるのは、将来はともあれ、現在のところは難しい。学校給食が民間委託に乗りやすいのは、食生活一般はさまざまな形でおこなわれていて、公共部門であれ民間部門であれ、いきなりその形態の是非を判断することが難しいからです。これは保育・子育てを考えるときにも生まれた問題でした。 もしこれが、給食そのものを廃止してしまうのか、それとも維持するのか、という問題なら話は別です。一部には、学校給食をやめて自宅からの弁当にすべきだという時代錯誤的な議論がいまなおありはしますが、学校給食全廃論が現代日本で支配的になることはまずないでしょう。給食廃止論にたいしては、給食必要論を対置していけば、必要論の側に軍配があがることはまず間違いないと思います。 ところが、本章で検討しなければならない問題は、学校給食廃止論ではなく、学校給食の必要性は認めたうえで、その学校給食の仕事をどこが担うのか、自治体直営でやるのか民間に委託するのか、という選択の問題です。この問題にたいして、民間委託推進論は「民間委託のほうが安上がりだから委託がよい」というコスト比較論を展開し、公民間のコスト情報を基準にした選択に立とうとします。これは、保育所でも清掃でもすべて繰り返しあらわれてきた論法でした。 この民間委託推進論にたいして、自治体直営の自校方式を擁護しようと思うと、コスト情報だけではつくせない給食労働の質にかかわる情報、つまり学校給食労働の公共性や専門性をとりあげ、コスト情報よりもその専門的公共性にかかわる情報のほうがより大切で、より重視する必要があることを論証していかなければなりません。この論証に成功し、住民がそれを評価するときに、学校給食の公共性が確立し、自治体直営自校方式の給食が維持されることになるわけです。 そこで、本章でも、本書でのこれまでの議論を継承し、学校給食の仕事はどういう性格をもっているのか、学校給食の公共性はどこにあるのか、給食労働はなぜ公務労働なのか、という諸点を考えていくことにしたいと思います。ただ、私はこの分野の専門家ではありませんから、問題のとらえ方、ものごとの考え方を示すにとどまります。 1、学校給食労働の特質と専門性 (1)学校給食労働の目的と労働の自立性 例によって、学校給食の労働過程から話をはじめると、給食のプロセスは、給食労働そのもの、給食労働手段、労働対象の二つからなりたっています。その際、学校給食の労働はさしあたり二つに分けられます。一つは文字通り調理する仕事、もう一つは調理した食べものを子どもたちに配食する仕事です。調理と配食という二つの仕事を統一したものが、学校給食労働です。 労働過程にそくしていうと、調理労働では、その対象は直接には食材です。配食労働では、その相手は子どもたち、すなわち生徒です。本書のこれまでの用語にしたがっていうと、調理労働は食材・素材を加工する労働ですから、物質代謝労働に属します。他方、配食労働は子どもたちに対するサービスですから、これは精神代謝労働に属する、とみてよいでしょう。ここでは、栄養士・調理師と子どもたちの間にコミュニケーションが成立すること、この点は本書でなんども確かめたとおりです。 したがって、調理と配食の統一としての学校給食労働は食材と生徒という二つのものを同時に相手にした仕事ということになります。仕事の目的・テーマは、さしあたり子どもたちに食物を提供するという点にありますから、給食労働では食材の向こうに子どもたちの顔が見えていなければならない、子どもの心身の発達が思い浮かべられて食材にたち向かうことが要求されます。献立の作成から調理の現場まで給食労働者が直接に相手にするのは食材そのものですが、そのときいわば心眼でとらえられた仕事の相手は子どもたちとなります。 人間の労働は、いかなるものであれ、あらかじめその労働の目的や成果が頭のなかに先取りされ、表象されている点にもっとも重要な特徴をもっていますが、給食労働であらかじめ精神的に先取りされ、頭のなかで思い浮かべられなければならないのは、まずさしあたりは完成した食物一式、だが同時にその食事をとるときの子どもたちの姿・表情、という二重のものになるはずです。これはたとえば、一人前の大工職人が具体的な建築仕事にとりかかる前に、あらかじめ完成した時の建物の姿を思い浮かべているのと同時に、その住宅内で営まれる家族の生活ぶりをある程度イメージ化していなければならないのと同じです。 さて、このとき学校給食労働で特に重要になるのは、その仕事の最終的な相手が子どもたちであること、そしてその労働の主題・目的が給食をつうじた子どもの発達保障にあることです。給食が担う発達保障の意味はまたあとでたちかえりますが、学校給食の調理目的がさしあたり安全で栄養バランスのとれた美味しい食物を作りあげることにおかれたとしても、それはいま一つの配食労働を通して子どもたちの健康、体力、活気・活力の発達を目的とした労働につながっていきます。少なくとも、調理にとりかかる以前に、あらかじめ育ちざかりの子どもの発達という目的・成果が表象として思い浮かべられていなければならないということです。栄養士は調理師との協力のもとに、この仕事をになっているわけです。 さらに、「住まいは人権」という思想を生かしたとき、大工の仕事が居住権の保障を担ったものになるように、学校給食を子どもの権利として把握するときには、学校給食労働は学校のなかで子どもの人権の一部を担う仕事であるということができます。学校給食は、放課後子どもたちがハンバーガーショップでものを食うのとはわけが違いますから、公教育の一環、すなわち教育権の一部だと考えるのが妥当です。 そうすると、学校給食労働は調理と配食を統一した子どもの人権・発達保障労働である、という定義が導き出されます。 この規定からただちに問われるのは、献立の作成から調理・配食、後かたづけまで、学校給食は子どもの権利・発達保障目的にしたがって自立性が保障されなければならない、ということです。この場合、自立性とは栄養士・調理師がその目的と専門性にしたがい、自ら判断して作業を進めるということです。たとえば、給食の現場で栄養士が自分の判断で献立を作成することができる、その献立作成に調理師が参加をすることができる、ということでなければならない。献立を考えたり、食材を選択・調達・保管したり、仕事の段取りを考えたり、調理手順にしたがって作業にとりかかったりするときに、その前提として、何よりも子どもたちの姿が思い浮かべられていることが大切になります。 だがもし、民間委託が進み営利主義が優先されたり、給食労働が現場知らずの小役人の頭で支配され、外的な圧力に左右されると、この自立性が失われていきます。ということは、学校給食本来の姿がゆがめられてしまうということです。 大阪府堺市の学校給食で起きたO−157中毒事故では、非常に古い設備で食材の保管に不安があること、洗浄機やフライヤー等も古いことは現場で働く調理師さんたちが以前から問題にしていました。しかし本庁の官僚主義的な対応、この場合は教育委員会ですが、そのずさんな対応によって改善されてなかったということと、事故が発生したということは関連していました。安全という調理労働の目的のために何が考慮されなければならないのかについて、現場の判断つまり自立性が保障されることがいかに大事であるかを示した事件だったと思います。 さらに最近では、学校給食に地場産の食材を生かす、地域の伝統食を取り入れる、特産物を活用するといった工夫がおこなわれていますが、こういう地域固有のやり方を採用するには、給食現場の独自の判断や工夫が保障されなければならないわけです。 (2)給食労働における技術と熟練 給食労働では、労働目的とあわせて、次に労働手段が問題になります。この場合、労働手段は調理・配食の器具・道具をさしますが、これは要するに給食技術のことです。私は本書で技術と技能を区別して扱ってきましたので、ここでも給食の設備・器具・食器等を給食技術、それらを使いこなして子どもたちに食物を提供する工夫、調理法、ワザ等は給食技能としておきます。この技能部分には、給食の場合にも、教師・保育上等の子どもに対する働きかけと同じように、給食労働者と子どもたちの間にコミュニケーションが成立するので、子どもたちとの応答にかかわる技能(コミュニケーション能力)が必要になります。 このうち設備・器具・道具の部分は、堺市のO−157事故の教訓で明らかにされたように、給食にふさわしい設備や器具が整備されていること、またそれを管理・補修する能力が給食労働に問われます。大工は自分が使う道具を作ることができて一人前といわれますが、それと同様に、給食労働者は自分たちの使用する設備・器具を自分達である程度修理できるようになって一人前の職人ということになります。これは給食労働者の技術的専門性の課題にほかなりません。一言いかえると、自分達の使う器具類の管理・補整・修理等ができはじめると、給食労働者は給食技術労働者となるわけです。 ただし、現実の給食労働では技能がより重要です。技能は、どの技能もそうであるように、まずマニュアル化できる技能、つまり客観化されていて誰れでもマニュアルにしたがって作業すればよい技能があります。いま一つは、食材の見分け方、その種類・状態に応じて工夫の必要な調理法、子どもたちにあわせた調味法といったマニュアル化できない技能があります。 給食労働は家庭料理とはちがって、大量生産でかつ味を落とさないために、固有の技・熟練が求められるということも重要です。この技能・熟練が調理師の仕事にたいする誇りの基礎になっているわけです。 ここで重要な点は、給食労働者の技能・熟練は経験のなかで蓄積されること、したがって給食を専門とする雇用の保障が必要になることです。これは、先に見た教育・保育の仕事に経験と安定的雇用保障が必要であったことに同じです。食文化については地域の伝統食とか、独特の調理方法を継承することが大切なわけですが、そういう熟練を学校給食のなかで蓄積しておくことが大事になります。 ところが給食業務が民間委託になると、そこではコストダウンがメリットとされているわけですから、マニュアル化された調理労働になりがちです。マニュアル化された労働とは、言い方をかえると、単純規格労働のことです。そこでは、技能とか熟練はむしろ邪魔者あつかいされます。規格化された味の食物を大量に生産しようと思えば、マクドナルド・ハンバーガーを見ればわかるとおり、現場で働く人たちの創意工夫は不要、むしろ邪魔になってくるわけです。短時間のうちに大量に生産しなければならなくなればなるほど、給食労働は単純にならざるをえません。 だが、学校給食の労働対象は個性をもった子どもそのものです。食生活が乱れた子どももいるし、アトピーで苦しんでいる子どももいます。個性をもった子どもたちにあう食べものを提供するには独特の工夫が求められるし、その場で判断しなければならないことも多くあります。これには給食労働者の熟練が必要なのです。 東大阪市の保育所給食で聞いた話ですが、アトピーで卵が食べられない子どもがいるので、調理師がカボチャを使って黄色いオムレツをつくった。アトピーの子どもが仲間外れにならないように、みんなが食べるオムレツの色と同じように工夫をこらして、その手に安心感をもたせるようにしたというのです。こういう知恵が調理師の熟達したワザになるわけです。 大阪市の保育所で聞いた話ではこんなのがあります。共働きで忙しいためか、朝食を抜いて保育所につれてくる親がいる。小中学校でも朝食抜きの子どもたちがふえていますが、保育所の子どもになると朝食抜きの影響は体にてきめんに現れてきます。十時頃になると子どもに元気がない。わけを聞いてみると、朝ご飯を食べてきていないという。子どもは待ったがききません。ちゃんと朝ご飯を食べて来なさいと指導するだけでは、その場の解決にはならない。それで調理師がありあわせのもので朝食をつくって食べさしたというのです。確かに、朝食の乱れそのものについては別に対策を考えなければならないわけですが、私はこの調理師はよくやったと思います。子どもの発達を担う現場では、こういう臨機応変の対応が給食労働者の専門性に問われるのだと思います。 学校給食では、こういう知恵・工夫・配慮が、道具や設備の整備と同時に、職人的専門性をもった熟練の課題として重要になってきます。これは調理の直接的対象、すなわち食材の選択・調達でも問われることです。地場産の有機栽培の農産物を選ぶとか。食材の安全性を見抜くとか、メーカーによって異なる味を見極めるとかの能力は技能に属することです。ある学校では、生活科の授業(現在ならそのうえに総合学習の授業)でグリーンピースを剥かせる作業をやったあと、それを使って調理したという話を聞いたことがありますが、これなどは自校給食方式のなかで、教師と連携して調理師が熟練を発揮した好例だと思います。 (3)子どもの食の評価能力を育てる役割 これまで、学校給食は子どもたちを相手にして食物を加工・提供すること、その際には労働手段の技術を使用し、かつ固有の技能を発揮することを見てきました。そこで重要だったことは、給食労働の目的は子どもの権利・発達保障にあり、そのためにこそ給食労働者はその技能・熟練を大切にしなければならない、ということでした。安易な給食の民間委託では、この肝心な点がおろそかにされます。 そのうえに今ひとつ、学校給食で重要になるのは、給食によって担われる子どもの発達とは何を意味するか、ということです。安全で栄養バランスのとれた美味しい食事が、子どもたちの健康と成長に不可欠であることは言うまでもありません。この意味での子どもの発達保障というのであれば、あえてここで付け加えるものは何もありません。 私がここでふれておきたいのは、食事を人間の本能の問題領域として扱うのはまずい、ということです。たとえば、現在、学校医あたりで問題にされているように、モノを噛んで食べる行為は本能ではないとされています。噛むという行為は社会の中の学習によって身につける能力なのであって、本能の問題にしてはならないのだそうです。 本書で以前にふれたノーベル賞経済学者A・センは、健康に生きるとか、食事を美味しく食べるとか、食欲が高まるといったことは、人間が持つ基本的機能であるが、そういう状態で人間が生活することは実は人間の潜在能力が発揮されていることを意味する、としました。たとえば、病におかされると私たちは食欲を失い、美味しいはずのものも美味く味わえなくなってしまいます。これは潜在能力が発揮できなくなっている事例です。逆に、添加物やら発色剤やらがたっぷり入ったインスタント食品に美味しさを感じるとすれば、これは潜在能力の歪んだ発現といえます。 センのこの潜在能力視点を使っていえば、学校給食は子どもたちにたいして食を媒介にして潜在能力を発達させる役割を担うと言わなければなりません。 食生活が乱れている子どもは生活リズムも乱れている、食べものを粗末にする子どもはその他のものも粗末にしている、ということが言われますが、食生活はさまざまな能力の発達問題にかかわってくるのです。味覚とてその一部であって、私はなにかの本で、飽食の時代といわれるこの現代日本で、子どもたちの味覚では「渋さ」が失われつつあるという報告を読んだことがあります。味覚は人間の評価能力の要素ですから、渋い味がわからなくなるのでは、子どもたちは評価能力の一部を退化させつつあると言わなければなりません。 食の評価能力の大切さは、たとえば戦後アメリカが小麦の売り込みのために学校給食にパン食を導入して、日本人の味覚をきりかえ、アメリカの食糧戦略の一環に組み込もうとしたことをみても分かります。これによってパン食の普及を通じて日本人の食に対する評価能力がある部分変容させられたわけです。 マクドナルドは一時期、「朝食もマック」という宣伝をして、将来は三食全部をハンバーガーショップで握るという戦略をたてました。その最初のターゲットにされたのが子どもたちです。子どもたちが十数年後、やがて二十代、三十代になって家族を形成すれば、親子はそろってマクドナルドに慣れ親しみ、自然にそこで三食をとるようになるだろうという戦略です。これは味覚を通じて食生活や食文化に対する評価能力が変容させられることを意味します。 食事をとる、美味しく食べて健康を維持するというのは、A・センの言う潜在能力の発揮を意味しており、これは食生活や食文化に対する評価能力を発達させます。学校給食で問われる子どもたちの発達とは、この評価能力にかかわってくるわけです。四季折々の伝統食、地域の個性を生かした食文化、新鮮な旬の味、これらは地域家族の食生活とともに、保育所や学校での集団給食を通じて、再発見されるべきです。その際、給食労働者の技能と知的熟練が決定的意味をもつことはもはや言うまでもありません。 2、学校給食の民間委託論とコスト比較の疑問 (1)民間委託会社の給食観とその批判 学校給食の民間委託は労働の専門性から見て、いかなる問題点があるでしょうか。これまでみてきた給食労働の目的や技能の重要性に照らして、民間委託の問題性を見ておく必要があります。 民間委託の問題点は、委託の受け皿会社が学校給食をどのように考えているのか、これをみるとよく分かります。日本給食サービス協会という団体が学校給食委託の提言をしているのですが、これが実に本音を端的に表現しているのです。ここでは、東京の都立高校の給食民間委託の事例をとりあげた見解を引き合いにします。都立高校の給食民間委託は早くからすすんでいて、この提言作成時点ですでに五年を経過しています。同協会は五年間の民間委託の実態をふまえて合理化のための課題を次のように指摘していました。学校給食問題のエキスパートである雨宮正子さんが『住民と自治』(一九九九年一〇月号でこれを的確に論評していますので、私もそれによりつつ紹介しておきたいと思います。 まず第一は、献立のマニュアル化の提唱です。「他校より良い給食を、内容のある給食をとエスカレートすること自体は悪いことではないが、献立の複雑化のため配置人員では無理が生じる」というわけです。つまり、いい給食のために苦労するほど余裕はない、というわけです。そこで、「誰でも調理できる献立表のマニュアル化も考える必要がある」ということになって、要するに献立はマニュアル化するにこしたことはない、となります。 第二は、食材料の大量購入の提唱です。これは、給食のコストダウンをはかるためには不可欠というわけで、提言は「保存食品は各学校が別々に仕入をしていることは今の時代には考えられらない。大量仕入による利点が多くある」と断じます。保存食品の利用と大量仕入れがその帰結となります。 第三は、栄養士と調理師の関係をいかに調整するかという問題です。学校給食では、栄養士と調理師の協力・連携が不可欠なことはここでも指摘しました。だが、調理部門に民間委託が入り込むと、これがなかなかうまくいかない。そこで提言は、「都庁職員としての栄養士が献立作成と仕入業務、調理指示書を作成しながら、派遣法から指示、命令をする権限は栄養士にはない。衛生問題、人事問題、調理技術、調理員の老齢化等、意に添わぬこともあることは事実で、われわれも努力をしているが、これらの問題から人間関係がこわれることが多くある」と述べて、途方にくれるという始末です。栄養士の献立作成という「頭の労働」を公共部門に残し、調理師の「手の労働」は民間委託にしてもかまわない、という理屈がここで破産していることがわかります。 第四は、陶器の食器はやめるべきだという提唱です。いわく、「いつも食べる者の事だけを考え、作業を行う者のことは全然考えないことは反対である」。いやはや率直な告白です。ここには、学校給食がなんのためにあるのかということが、本末転倒、主客逆転の形で露骨なまでにあらわれています。 第五は、手づくりはほどほどにということです。「手造りは決して悪くないが数量はほどほどにしないと完全に人手不足を誘発し、調理技術の低下した人の補充となり悪循環となる。数量その他を考えた上で、献立を作るべきと思う」(以上の引用はすべて、(社)日本給食サービス協会発行「集団給食合理化マニュアルX」P163から168、一九九〇年三月)。ここにいたると、給食労働の技能や熟練などくそくらえ、そんなものにかまっていたら採算などとれるものではない、という本音部分がきわめてあからさまに語られていることがわかります。 念のため言っておきますが、私はここでこの提言を害いた人をことさらに悪くいうつもりはありません。学校給食の委託を受けた民間会社としては、おそらくは、こう言わざるをえなかったのだと思います。委託会社のほうから見れば、給食事業を民間企業の採算原理にしたがって営まなければならないのですから、上のような学校給食の本質からはずれたことをいわざるをえなかったのでしょう。給食現場に働く労働者も肩身の狭い思いで働いているにちがいありません。 問題なのは、民間委託の仕組みがこのような提言を生みだした点にあります。責任はむしろ、こういうことを承知のうえで、安上がりをいいことに、ひたすら民間委託推進に走るコスト比較論者にあるのです。 実際に、上に紹介した提言について委託現場の労働組合そのものが次のように批判しています。参考のためにこれも紹介しておきましょう。 まず第一は、安上がり、効率至上主義の問題については、「契約金が安い事を口実にして、調理技術や衛生知識が不足している調理員を学校現場に配置する傾向がある」、「パート職員や集団給食調理未経験者が多い」、「九一年全校委託になってから、受託会社の代表が『人手不足で手作り給食を作るのは難しい』『学期末の調理室の清掃は二日程度におさえてほしい』等の発言をする」というなまなましい批判が寄せられています。 第二に、給食の水準の問題については、「だしの取り方やルウの作り方などの基本を知らない」、「ほうれん草などのゆで加減がわからない」、「野菜の切り方の名称や切り方を知らない」、「調理の仕上がりが給食時間に間に合わない」、「調理の仕上がりが早すぎる」、「調理業務責任者(チーフ)が一人で調理をし、他の人は補助的な仕事しか出来ないため、適温調理が出来ない」、「年度途中における突然の調理員の変更がある」、「事前の打ち合わせと指示書だけでは、これまで通りの給食は出来ない」という声があがっています(以上は都職労都立学校支部「給食調理業務民間委託一〇年の実態」一九九五年一〇月発行より)。 私は、労働組合自身が、いわば委託先の給食現場の恥をさらすように、こういう問題点を率直に指摘していることは大変意味があると思います。その昔、公害をまきちらした工場に対して肝心の工場労働者自身から告発や証言の声があがらなかったことに手厳しい批判が寄せられたことがありますが、いま学校給食の委託先の労働者から委託現場の問題がてっけつされることは大きな意義があります。 問題なのは、学校給食の専門的な仕事の内容が、委託の現場ではことごとく邪魔者あつかいになっている点にあります。労働組合の批判は、専門性の軽視の結果、民間委託先の給食現場でどんな問題が起きてくるかを具体的に教えてくれるものにほかなりません。こうしたことを給食職場や地域で問題にし、子どもを中心とした学校給食の中身にてらして、いかに直営・自校方式給食が大切かを再認識する必要があるわけです。 (2)学校給食のコスト比較論の一面性 さて、給食にかぎらず他の分野でも同じですが、民間委託にあたっては公民間のコスト比較論が持ち出されます。この論点については本書でなんどもふれてきました。 公民間コスト比較論の強さと同時にその弱さは、ものごとの比較をおこなう場合の基準にコスト情報をおいていることです。そのコスト情報も、給食を例にとれば、一食について一口あたりいくらという個別的・短期的コスト情報にすぎません。給食のもつ長期的・総合的な効果を勘案したコスト情報を基準にしているわけではありません。つまり、かなり一面的なコスト情報を比較基準にして公民間の効率を比較していること、これはすでに本書で再三説明してきたとおりです。 特定の情報を基準にした比較は、その他の情報を基準にした比較を切り捨てることを意味します。人間の大きさをはかる場合、身長を基準にして大きさをはかるとすれば、その他のたとえば体重を基準にした比較は捨象されます。人間のスピードを比較する場合にも、走る速さを基準にする場合には、泳ぐときの速さはまず問題になりません。つまり、ものごとの比較では何を基準にして比較するのかということが決定的に重要になるわけです。 学校給食の民間委託推進論が、比較基準にとるのは、コスト情報です。この議論の最大の問題点は、学校給食の内容・質にかかわる情報を切り捨てる点にあります。先に紹介した日本給食サービス協会の提言の問題点は、労働組合の批判にもあったように、肝心の給食の質・内容を粗末に扱い、給食労働の専門的熟練を軽視している点にありました。 給食のあり方を判断するには、コスト情報以外のさまざまな判断材料が必要です。たとえば、安全かどうかはもとより、おいしいかどうか、残さいが多いかどうか、子どもたちがどう感じているか、子どもの成長から見てとうか、教育的な効果はどこにあるか、といった大切にされなければならない情報がたくさんあるわけです。私たちがレストランで注文するときですらそうです。コスト情報は軽視できませんが、コストだけで選んではいません。まして育ち盛りの子どものための学校給食のあり方を考えると、コスト情報だけを基準にした判断は一面的にすぎます。 私は、学校給食のあり方を考えるうえで、まず優先されるべき基準は学校給食の主題であった子どもの権利・発達保障の視点だと思います。この視点から、実際に、一回に何千食もつくるセンター給食をやめて自校方式に戻す動きが出ています。コスト論からみるとセンター給食が安くついてよいと思われていたのが、給食の質の面でははるかに劣ることが明らかになってきたからです。センター方式は輸送コストもかかるし、早い時間に搬送せざるをえないために冷たくなってまずくなる、給食後の残さいも非常に多いという問題点が浮かびあがってきました。これらはコスト比較論者が切り捨ててきた情報、いわば計算されなかったコストにあたります。ここから自校方式の再評価が広がってきたのです。もちろんセンター方式でも直営のものがあるし、反対に自校方式であっても民間委託というところがあります。いずれにしても、学校給食のあり方は、各地の現実から出発して、子どもの権利・発達保障視点から改革されなければならない、ということです。 (3)民間委託は必ずしも安くつかない さらに問題なのは、民間委託をしても長期的にみると経費は必ずしも安くはならないことが明らかにされつつあることです。企業は、最初のうちは利益がでなくても委託事業の確保にむかいますが、委託がすすんでいけば委託コストの算定や契約額について業者の交渉力が高まっていきます。そうなれば市場の法則として契約金額が上げられていくわけです。 たとえば、一九九〇年度から学校給食の調理委託を導入した埼玉県春日部市における学校別委託料の推移をみると、児童生徒数(給食数)が減少しても委託料は毎年度着実に増加しています。生徒一人当たりの委託料でみると、生徒数の減少が著しい谷原中学校では、九〇年度の二万二八一二円から九六年度は四万八〇五九円と、六年間で二・一倍になっています。「学校給食通信」一九九七年一二月号) 東京都内では委託料がさらに高くなっていて、台東区の場合、区立小中学校の一人当たりの年間委託料は、一九八七年には二万四〇〇〇円台であったものが、一〇年後の一九九七年には、低い業者で五万二〇〇〇円台、高い業者では七万五〇〇〇円以上になっています。(『学校給食通信』一九九九年四月号) こうしたことがなぜおこるかといえば、委託先の企業の経営原理が利潤追求にあるからです。コストの低廉化は利益をあげるための手段にすぎず、企業からみればコスト削減そのものが目的になるわけではありません。給食の委託契約が安定化すると、委託料の引き上げをつうじて企業が利潤の安定的確保に走るのは当然なわけです。 さらに、コスト比較の問題点は、給食にせよ保育にせよ清掃にせよ、けっきょくのところ大半は人件費の問題にいきつきます。民間ではパートタイマーの活用等によってそもそも賃金水準が低くおさえられ、年功序列型賃金ではありませんから、長く働いても賃金が上がらないところが多い。その上に人員配置も手薄にしますから、コスト比較をすると公共よりも安くなるわけです。 しかしたとえばヨーロッパのように職務給が貫かれていて、職務と給与がリンクしており、正職員と非常勤・パート職員の身分格差がない社会では、時間あたり賃金が同じになっていますから公民間のコスト格差はでてきません。スウェーデンで民間の保育所がやや増えているのをとらえて、″スウェーデンでも保育所の民間委託がおきている〃という人がいますが、これは一面的な見方であって、職務給制度のもとでは横断的な賃金体系が確立していますから、保育士に日本のような身分格差、賃金格差があるわけではない。こういう条件ならば、どちらを選択するかはまさに住民自身の選択になるわけです。公共部門と民間部門が健全に競争し、刺激しあう条件があるわけです。 ところが日本の場合はまるで違います。公共と民間では、労働条件、身分保障、処遇の格差があって、結局は弱いところに劣悪な形でしわよせされる結果を招いています。公民のコスト比較にあたっては、学校給食のばあいにも、この点をしっかりとおさえておく必要があります。 3、子どもの発達と未来を担う給食労働 (1)コミュニケーションの場としての食生活 学校給食の配食面、つまりいわゆるケイタリングの面に目を向けると、そこは給食労働者・教師と子どもたちのコミュニケーションの場です。ケイタリングの手段・方法にも二側面があります。 一つは、食器類に陶磁器を使うとか、ランチルームをつくるとかの物的手段があります。これは配食の技術にあたります。この技術をどう教育視点から選択し、生かすか、これはそれぞれの学校で工夫の余地があります。どういう場で食べるかは、私たちが家庭でどういうテーブルを囲むかを大切にしているように、たいへん大事です。 もう一つ、食というのはコミュニケーションの場であるということです。団らんという言葉があるように、家庭では家族のコミュニケーション、給食であれば、子どもたち同士、子どもと教師、子どもたちと給食労働者のコミュニケーションの場なのです。 コミュニケーションの場だからこそ人間的な食文化が芽生えてくるわけです。コミュニケーションがあるからこそ、どういう工夫で調理するか、どういう場で食べるのがよいかというフィードバックがなされるわけです。レストランでボーイやソムリエがなぜ重要かというと、お客とのコミュニケーションでその場にふさわしい食べものが提供されるからです。日本の本の文化などは、コミュニケーションそのものといってよいものです。コミュニケーションがあるからこそ、単なる食欲の充足にとどまらず、味わいというか食文化が生み出されるわけです。 同じ教室でおしやべりをしながら食べる学校給食のひとときは、授業のときとは違う雰囲気があるものです。学校教師の話では、先生たちも給食時には授業とは違うコミュニケーションの場にしたいと思っているけれども、あわただしくて、残念ながらそういう時間がもてないといいます。給食が豊かになってコミュニケーションのひとときがよみがえることは、一日の学校生活の中でも大きな意味をもちます。 (2)子どもたちの潜在能力を担う食文化 食という文字は「人を良くする」と害く、こういうことがよくいわれてきました。 食文化は、人間の「よい状態(well-being)」を保つものにほかならないわけですが、学校給食をコスト情報だけで判断する画一的効率主義には、現代社会の食文化を粗末にする風潮が反映していると思います。もちろん、現代社会ではグルメ志向とやらで、テレビ番組でもやたら料理番組が増えてはいます。だが、かつて大平健『豊かさの精神病理』(岩波新書、一九九〇年)が警告を発したように、グルメ志向はモノの虜になった「モノ語り文化」の一種にすぎない面があり、食文化本来の対話文化の「もの語り」とはずれたところに位置していると見るのが妥当です。 最近話題の門脇厚司『子どもの社会力』岩波新書、一九九九年)も、子どもたちが食生活その他で身につけてきた社会形成力の衰えをとりあげています(ついでながら、門脇氏の造語「社会力」は「社会形成力」というべきで、語用としては不適切である)。たとえば、子どもたちに描かせた家族の食事風景が「孤食」化を反映しているというのはその一例です。門脇氏が問題にする子どもの「社会力」の衰退というのは、本書の私の見方からすると、その大半がコミュニケーション能力の衰退問題に帰着するのですが、言語的・非言語的コミュニケーションの場を子どもたちの世界にもう一度取り戻すことが重要になっていることは疑いありません。学校給食はその一環を担うはずです。 食生活のなかの対話文化が衰退していることとあわせて、いまひとつ注目しておかなければならないことは、全体として食に対する技能、和食等の伝統的なクラフト、調理法の衰えがあって、そのことが逆に家庭の外でのグルメ志向化をよびおこすと同時に、学校給食に対する軽視の風潮をつくりだしてぃるということです。 一方での家庭の団らんの希薄化と、他方での調理技能の衰退とは、両方ともに外食産業からすれば市場拡大の条件となります。外食企業としては、一方では手作り料理とか高級料理を売り込みながら、もう一方で冷凍食品や加工食品という大量生産型の商品を売り込むことができるわけです。これは、手芸や和裁の能力が衰退すると、一方では手編みの衣料品とか高級ブランド指向が高まり、他方では大衆的な使い捨て型衣料品がよく売れる、というのに同じです。学校給食でも、手作りの弁当持参がよいという中間層の意見が登場し、かつ同時に給食は安上がりがよいという意見が並行して生まれています。 私は、料理や手芸等を家庭の中に押し戻すのは反対です。まして、現在なお支配的な性別役割分担のなかに詞理その他の家事を委ねるのは断固反対します。では、調理・食文化はどうとり扱ったらよいでしょうか。それは、人間の潜在能力の発達視点から再評価することです。食材を見極め、調理の手をとり、料理を味わい、食卓の対話を楽しむ、これらは人間の潜在能力の一部であり、これらの諸能力を発達させる視点から食生活、したがって学校給食の役割を正当に評価することが大切なのだと思います。 五〜六年前の話になりますが、私の息子が高校生のおり、家庭科教育の男女必修について、「もっと早くから家庭科必修になっていたらよほど良かったのに」と述べていたのを思い出しますが、裁縫・しつけ・炊事・洗濯・掃除の「さしすせそ」家事というのは、人間が生活するうえでの基本的生活能力にあたるわけです。それらの能力を発揮することは、ほかならぬ生活を享受するという意味もあるのです。 調理・料理は本書でいう「共受関係」をつくりだします。食べる人は作った人の努力を享受し評価する。と同時に、作った人は食べる側の反応を受け止め享受する。給食の場では、給食労働者と子どもたちのあいだに、こういう互いが互いを評価するという「共受関係」が成立するわけです。学校給食は、そういう意味での子どもたちの評価能力、共受能力を発達させる役割ももっています。 ただし、この学校給食の役割を公共的なものととらえ、自治体直営の自校方式で維持するのかどうか、これは地域住民白身が学校給食を子どもの発達保障として評価するかどうかにかかってきます。再び宮本憲一他『新・職人宣言』(ふきのとう書房、一九九九年)の言葉をひけば、学校給食の職人のワザはその地域の住民自身がそれを必要だと評価するかどうか、給食労働者の調理を子どもたちが食べたいと評価するかどうかにかかってくるといわなければなりません。その意味でいえば、学校給食をどう守っていくかは、まさに街づくりの課題でもあります。 |
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第6章公共性論の系譜と自治体・公務労働の覚え書き (省略) |
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以上 | ||