資本主義の限界」について考える
新たな社会構想の探求の出発点として
江口健志(労働者教育協会常任理事
不況の嵐のなかで

 今、勤労者を厳しい経済不況が襲っています。失業、貧困、中小企業の経営困難が深刻化しています。これは、日本だけでなく、最近のギリシャの経済危機が象徴的に示しているように、世界の先進資本主義国全体に言えることです。現代の資本主義経済がなぜ深刻な経済危機に陥ったのか。その背景には何があるのか。そして今後の展望をどう考えるのか。この40年間の資本主義の動きを歴史的視野に入れつつ、検討したいと思います。
 今大切なのは、現象を単に追いかけるだけでなく、現実の資本主義経済を理論的かつ歴史的に考察する姿勢ではないでしょうか。

経済危機の基礎にあるもの
生産と消費の矛盾


 現代の経済危機の基礎には、何があるのでしょうか。資本主義のシステムは、生産力を発展させ、あくなき利潤追求をその本性としています。資本主義の発展は、新産業部門と新商品を開発することによって、人々の欲求を多様化し、国内市場を広く深く拡大していく過程です。1950年から60年代における日本を含む先進国の高度成長は、その典型でした。この時期の経済成長は、民間設備投資主導の成長であり、電気冷蔵庫、自動洗濯機、乗用車、テレビといった、耐久大型消費財が次々と国内に普及していきました。しかし、そうした先進国の高度経済成長が永遠に続くはずがありません。ある段階に達すると、国内市場は成熟期を迎えます。国民的欲求の広がりにも限界があるのです。生産力の急速な発展にも関わらず、市場の拡大は行き詰まりに達します。その限界を超えて生産が無制限に発展するとき、「過剰生産」が顕在化することになります。先進資本主義国は、1970年代の半ばに深刻な市場の限界にぶちあたりました。1974年から5年世界同時不況はその画期です。
 資本主義の下での生産の無制限の発展と大衆の消費制限、この矛盾こそ、現代の経済危機の深奥の根拠なのです。これによって過剰生産が引き起こされ、経済は急速に収縮し、企業倒産、失業などが深刻化します。ここで留意したいのは、生産力の不足が恐慌の原因ではないということです。逆です。資本主義の下では、生産力が無制限に拡大するがゆえに、市場の限界と衝突せざるを得ないのです。言い換えれば、生産力を計画的にコントロールできない資本主義経済は、経済危機を免れることはできないのです。これは「生産力と生産関係の矛盾」です。この点の認識は、私たちが今後の社会の展望を考える場合に重要な意味を持ちます。

新自由主義の台頭
競争激化と貧富の格差の拡大


 1974年から5年不況を契機に、先進国において、それまでのような高度成長は困難になります。成長至上主義は、深刻な限界にぶつかりました。しかし、資本主義経済は、こうした制限をさらに突破して、ひたすら経済成長を追求していったのです。
 それでは、資本主義経済はどこに活路を見出そうとしたのでしょうか。
 一つは、1970年代後半以降に台頭した新自由主義路線です。「新自由主義」とは、経済政策全般にわたるイデオロギーで、「市場に任せれば経済はうまくいく」とする単純な市場信仰の考え方です。「大きな政府」を否定して「小さな政府」を主張し、規制緩和・自由化を求め、社会的弱者保護に代わる競争原理と自己責任論を主張しました。これによって大企業中心の政治経済システムが目的意識的につくられ、企業への公的な緒規制が撤廃されていきます。
 この時期の資本主義は、競争原理の回復によって限界を突破しようとしたのです。新自由主義イデオロギーは、その後押しをしました。しかし、市場の拡大が行き詰まった時期の競争は、生き残りをかけた厳しい競争に、その性格が変わります。その結果、賃金コスト削減の「底辺に向かっての」競争に突入していきます。
 新自由主義イデオロギーに基づく政治反動は、先進国を中心に起こりました。代表的なのはイギリスのサッチャー、アメリカのレーガン、日本では小泉構造改革の政治です。まず、戦闘的な労働組合運動が抑圧されます。日本でも80年代の中曽根政権が国鉄分割民営化を強行し、国労つぶしの先頭に立ちました。そして、国家の公的部門が縮小され、それまで民衆の運動によって勝ち取られてきた福祉、社会保障が切り捨てられました。大企業減税、累進課税の緩和などの大企業支援、そして、富裕層や社会的強者のための政治経済システムが意識的につくられます。他方、労働市場も規制緩和され、非正規雇用が広範に作り出されました。今日本で問題になっている派遣法も、労働市場の規制緩和の所産です。このように、新自由主義政策によって、競争を激化させ、貧富の格差を拡大しながら経済成長が追求されていったのです。

バブル絡みの経済成長

 高度経済成長が限界にぶつかって以降の、資本主義システムのもう一つの活動が「バブル経済」でした。バブルとは、土地や株など資産価格の高騰を背景に、実体経済と金融とが相互作用し、景気が持続的に拡大していく経済のあり方です。
 80年代の日本のバブル経済、2000年以降のアメリカの住宅バブルこそ、その典型といえます。金融自由化、規制緩和によって、巨大金融機関によるマネーゲームが自由に行われるようになったのも大きな特徴です。ここでは、アメリカの住宅バブルの性格について、若干言及しましょう。
 2000年以降のアメリカ経済は、住宅価格上昇、住宅ローン拡大による好景気でした。住宅価格が上昇し、それを基礎に家計支出が増大していくことで景気が拡大したのです。裾野の広い大衆的消費が活性化し、それが起動力となって、実体経済が拡大したのです。生産する以上に消費する個人消費主導の経済活況が生み出されました。これがアメリカの「過剰消費」です。消費者ローンの拡大が、こうした過剰消費を支える条件でした。住宅ローン専業の金融機関が旺盛に貸し出しを行い、多くの人々はローンで住宅を購入しました。それにより常に住宅需要が高まり、住宅価格が上がり続けることになります。
 それをもとに人々は借り換えを行い、自動車、家具などの個人消費をさらに増大させました。このようにして実体経済の持続的拡大が作り出されていきました。日本でも話題になった低所得者向け住宅ローン=サブプライムローンは、バブル経済の末期的な現象といえます。さらに、金融の重層的な証券化・国際化は、消費者ローンの拡大を促進し、過剰消費を支えました。
 アメリカのバブル経済は、資本主義の歴史のなかでどのような位置をもつでしょうか。資本主義の発展期は、設備投資主導の経済成長にその特徴があります。ところが、アメリカのバブル経済はどうでしょうか。消費者ローンによる旺盛な個人消費に主導されて実体経済が拡大していきました。つまり浪費に依存した景気拡大である点に特徴があります。これは資本主義の寄生的な、末期的な段階を示すと言えるのではないでしょうか。深刻なのは、ヨーロッパを含む世界経済全体が、こうしたアメリカの過剰消費に依存していたことです。トヨタをはじめ日本の大企業も、アメリカへの輸出を伸ばして、儲けを増大させました。日本経済は、アメリカの浪費に依存して(実感なき)「景気回復」を遂げたわけです。
 現代の資本主義は、バブル経済がらみでしか経済成長できない段階に至っていると考えられるのです。

新自由主義の破綻と2008年世界経済危機

 しかし、今新自由主義とバブル絡みの成長構造は、大きな壁にぶつかっています。新自由主義は、2000年以降の日本の状況に示されるように、失業や貧困・格差を増大させ、社会統合を解体していきました。労働力を再生産できない「ワーキングプア」が国民の二割もいる社会。低処遇の正社員も含めて多くの労働者が生活困難に陥っている社会。これはもはや、正常な経済とは言えません。
 さらにバブル絡みの経済成長は、2008年世界経済危機を契機に破綻しました。この経済危機を「金融の一人歩き」の破綻、単純な金融危機としてみる考え方がありますが、それは一面的でしょう。アメリカの住宅バブルは、実体経済そのものの持続的拡大の過程だったからです。ここでも、根底には「生産と消費の矛盾」、住宅や自動車などを中心とした過剰生産が横たわっています。
 アメリカ政府は、金融機関を救済し、大企業に積極的な支援を行って破局的な経済危機を回避しました。しかしそれでも、実体経済は不況のままです。バブル経済の基礎にあったローンの拡大が深刻な問題となっています。景気拡大を牽引した個人消費は低迷したままであり、事態は長期停滞の様相を呈しつつあります。
 今や約30年にわたる新自由主義の行き詰まりが表面化しています。それだけではありません。アメリカ中心の世界経済、バブル経済に依存した現代資本主義システムそのものの破綻があらわになっています。ここに今日の「資本主義の限界」の深刻さが示されているのです。

成長至上主義からの脱却を

 あくなき利潤追求と経済成長至上主義。それと結びついた「競争が社会を活性化させる」という考え方・・・先進国を覆い、社会の自明の前提となっているこうした価値観、イデオロギーと決別すべき時期にきているのではないでしょうか。この考え方は、先進国の経済成長が限界にぶつかって以降、いっそう声高に財界によって叫ばれたイデオロギーでした。成長至上主義は、貧困や長時間過密労働をもたらし、競争原理を社会の隅々まで浸透させ、社会を解体する大きな要因となりました。それだけではありません。今日の不況下に、引き続き労働者の犠牲を強いる大企業の代表的な論理が、経済成長論なのです。「国際競争のために労働者の賃金コストを切り下げる」という財界の転倒した理屈は、労働者や市民の幸せより経済成長が重視される資本主義システムの非人間性を、何より雄弁に物語っています。そもそも、「永遠の経済成長」という考え方に無理があります。生産力の十分に発達した国が、なぜ永遠に前年度を上回る経済成長を追求し続けなくてはならないのでしょうか。経済成長のために人間が生きているのではありません。人間の幸せのために、豊かな生産力が活用されなくてはならないのです。経済成長は手段に留まり、人類の目的にはなりえません。それが転倒してしまうのは、資本主義があくなき経済成長を不可欠の条件とするからです。さらに、限りない経済成長の追求が深刻な環境破壊をもたらしていることも凝視すべきです。大量生産大量消費がこれからも続くなら、地球環境は破滅に向かうでしょう。成長至上主義を乗り越えていくことは、私たちの現代的課題なのです。
 最近、トヨタのリコール問題が大きな話題となりました。安全性を犠牲にした利潤本位の生産システムの問題が国際的に表面化しました。同時に、自動車産業に依存した現代資本主義のあり方の問題性も浮き彫りになったのではないでしょうか。成長至上主義と結びついた大量生産・大量消費システムを大きく見直す契機にすべきだと考えます。

豊かな社会構想の必要性
豊かな生産力を勤労者の幸せのために


 今社会運動に何が求められているのでしょうか。運動の目標を立てる前提として、科学的現状認識が大切です。現局面の経済危機は、単なる政策的破綻のためだけではなく、より根本的には「資本主義の行き詰まり」として把握することが必要です。そうした認識の上で、資本主義体制そのものを見直し、新たな社会を構想していくことが重要な課題となっているのではないでしょうか。
 それでは、新たな社会をどう具体的に構想するのか。これは、今後共同で探求すべき重要な課題です。ここでは基本的な考え方についてのみ言及します。それは。ありあまる生産力を、企業の利潤のためにではなく、勤労者の幸せのために民主主義的に活用していくシステムが探求されるべきだということです。現代資本主義の高い生産力を、人間が安心して暮らせる社会づくり、人間にとって必要な福祉、医療、教育、文化形成のために大きく振り向けるべきです。さらに、発展した生産力を、貧富の格差是正と労働時間の短縮に活用する必要があります。時短は、人間の自由な個性が開花する社会の条件となるでしょう。そして浪費をなくして環境保護の方向に生産力を合理的に活用するなら、環境破壊を乗り越え、「持続可能な社会」を構築することが十分に可能です。
 当面の諸課題、切実な要求運動をたたかいぬきながら、同時に長期的な歴史的展望を探求していくことが大切だと思います。私たちの日々の地道な運動は、そうした歴史的視点と結合されてこそ、未来を創るいっそう大きな力になり得ると考えます。労働者教育運動の重要な役割の一つも、その点にあるのではないでしょうか。
以上